真と感動
次の文章は俳句誌「玉藻」に載った虚子の言葉である。
「真を追求することは結局真に終わることになる。それを美とするには手腕を要する。それが芸術家の働きである。真は何処までも真である。それを如何に美化するかが芸術の大事である。芸術家の苦心は其処にある。そのプロセスを考えずに、真が直ちに美になるが如く考えるのは誤りである」
虚子は真と美の関係を論じているが、私は美が俳句の表現目的ではないと考える。美よりもさらに重要なもの、すなわち感動の的確表現こそが俳句の目的である。美は感動の一部でしかないのである。破壊の感動や魔の感動もあるのである。
さて、真を追求するとはどういうことであろうか。
目の前に過去の記憶の「桜」があったとする。桜は満開であり、今でもあふれ出さんばかりに散ろうとしている。とても美しい姿である。この真実美しい姿を俳句に表現しようとしてみよう。するとどうであろうか。中年の酔っぱらいが現れたのである。満開の桜の根もとに、吐き出したのである。飲み過ぎたのであろう。酔っぱらいとって桜の美などどうでもよいのである。
満開の桜酔ひ人吐きにけり 孝治
これは真実の句である。何も美しさもないのである。美しく詠むなら、最初から吐く酔っぱらいを排除するべきである。そして満開の桜のことだけを詠めばよいのである。
満開の桜微かに散りそめし 孝治
うーん、ここが限界である。桜の真実を美しく詠もうとしてるのであるが、才能が足りないためにあまり美しくなっていないのは仕方ないことである。ここはそれほど問題ではないのである。兎に角、真から美を追求する場合、醜いものを排除しなければならないのである。美は範囲が狭いのである。美は限定された真なのである。しかし真の中には中年の酔っぱらいも含まれているのである。その酔っぱらいが吐いた後、桜の近くを流れている信濃川に向かって小水で弧を描いたとしよう。しかし一間越えることのない弧である。小さな色のない虹である。これは美しくないが、見る人によっては感動を与えるのである。何の感動かって、それは中年の哀れな姿への感動である。
哀れさも感動を含むのである。美の感動を表現することは容易である。大して才能がなくても数をこなせば作れるのである。しかし哀れなものの感動が表現できれば大才である。立派である。なさけない姿の感動が表現できること、これが一番難しいのである。だが、まだ情けない中年は比較的詠みやすいのかもしれない。
結論として、美の句ばかり追究していると狭い句しか詠めなくなるのである。美を離れた処に本当の深い真実があると考え、俳句を詠むべきである。感動も深い真実には必ず付随しているのである。これは俳句に対する基本姿勢の一つである。
2007.9.30