俳句の真の能力

「私には才能がないですよ」とか「何年も俳句をやっているけれど、上手くなりません」とかいう方がよくいるのである。謙遜しているのではなく本当に才能が無い場合もあるが、さてこの才能とは何であろう。また大きな才能、小さな才能もあると思うのであるが、どのように考えたらいいのだろう。
まず、俳句の才能についてであるが、対象から人の気づかないことを発見したり、空想したりするということである。俳句の表現能力も才能の一つであろう。人が気づかないことを発見するのであるから、人に感動を与えるであろう。美しさの発見ならばさらに大きな感動である。これが永続的に続く方は真に才能があるということであろう。
 さて、この才能を階層的に分類してみよう。

1のレベル 俳句に興味のある才能

 俳句や文学に興味はあるが、自分からは手を出そうとは思わないのである。新聞の投稿欄などの俳句や短歌をみては楽しむ方である。つくる才能がないと最初から諦めているのである。よき読者である。


2のレベル 人並みの才能

 文学好きであり、普通に仕事をこなし、退職後の趣味として俳句でもやろうかと思う方である。つくる意欲はもっているのである。俳句はある程度努力するとある程度の俳句はつくれるようになるのである。つまり多く秀句を覚えて、それらの発想を変形することにより、佳句はつくれるのである。しかし、すぐに限界がきてしまうのである。後は趣味として句友とのつきあいを大切にしながら、惰性的に句をつくるのである。


3のレベル 人並み以上の才能

 仕事の切れる方がいるのである。そういう人はバイタイティがあり発想もよく、社会性や先見性もあり、基本的には何をやってもある程度の成果を出せるのである。そういう人が努力して俳句をつくると直ぐに上達するのである。人並みの才能の方々からは羨ましがられるのである。だがある程度の水準に達すると自己模倣するようになるのである。ある程度の高さで止まるのである。しかし、人に教える程度の知識や教養をもっているので、句座の主になったりして一目置かれるのである。


4のレベル プロなみの才能

 このレベルになると感性が著しく人並みでないので、一般の仕事はまともにこなせない方もいるのである。しかし、こなせる方もいるが何か人と違うので、一般社会では出世できないであろうと思われる。感性がとても細やかなので、対象に敏感に反応し、人の気づかないことを発見したり、空想したりするのである。本当に才能があるので、病的傾向があるのではないのかと疑われてしまうが、精神病者とは基本的に異なるのである。論理的思考能力を持ち合わせているが、行動がやや奇怪な方もいるので、一般の社会人にはあまり理解できないだけのことである。このレベルの才能には限界がなく、自己模倣を晩年までほとんど行わないのである。新たに分野を開拓していく方である。
 だが、俳句は芸術の中でもまともな方の割合が多い分野と思われる。句座では社会性が重んじられており、結社は社会性がないと運営できないので、俳人にはある程度の社会性が必要である。恐らく3の段階でプロという方もたくさんいるであろう。

                                             2008.8.31