俳句の空間
俳句には、「一物仕立」と「取り合わせ」との句があり、一物仕立は、一句を一つの素材でまとめた作句法であり、取り合わせの句は、一句の中に二つの素材を置いた作句法である。さて、これらの句の情景、つまり空間はどうなっているのだろう。
まず、「一物仕立」の代表的な句としていくつかあげてみよう。
(1)くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇忽
(2)鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
(3)流れ行く大根の葉の早さかな
高浜虚子
それぞれの句を想像してもらいたい。(1)の句は、鉄の風鈴が鳴っている場面が想像できよう。それ以外想像できないのである。(2)の句は、群れている鶏頭以外想像できないのである。(3)の句は、大根の葉が小川を速い速度で流れている瞬間の場面しか想像できないのである。一物仕立の句は、俳句の空間がくっきりと限定されているのである。それ以外想像してはいけないのである。くっきりとその場面が想像できる句は秀句か名句になるのである。「一物仕立」の俳句は、一空間で造られた句なのである。
さて、「取り合わせ」の句はどうなっているのだろう。
(1)降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
(2)万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
(3)曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
金子兜太
(1) の句は、降る雪を見ていると、明治の頃が思い出されるということである。降る雪の中に明治の頃の情景が映し出されているのであろう。降る雪の情景と思い出の情景とが存在しているのである。つまり、一つの句に、二つの空間が存在しているのである。その空間が鑑賞者の脳裏に浮かんでも違和感がないということである。映画の手法でもありそうな句である。
(2) の句は、万緑の場面とピストルを頭に向けている作者の姿の場面が浮かぶのである。この二つの情景に違和感がないということである。何故違和感がないかを説明するのは難しいのであるが、万緑の生と死とは隣り合わせに存在するとでもいいたいのであろうか。
(3)の句は、曼珠沙華の花がいくつも咲いている場面と腹を出した貧しい秩父の子どもたちの遊ぶ場面が浮かぶのである。この二つの場面がよく適合しているということであるが、それを説明するのはやはり難しいように思える。曼珠沙華は死に花であり、腹を出した秩父の子は餓鬼に見えるということなのであろうか。
さて、「取り合わせ」の句に存在する二空間は、鑑賞者が脳裏に一緒に描いても違和感を感じさせないのである。だから名句ということなのであろう。
俳句は短い。しかし、その空間は俳句に比べれば遙かに広いのである。その空間の広さを長谷川主宰は「俳句の宇宙」という言葉で表現しているのであろう。この宇宙は鑑賞者の脳裏に広がる宇宙であり、鑑賞者が正しく鑑賞しなければ正しく宇宙は認識されないのである。また下手な俳句では心地よく宇宙が想像できないのである。
では、名句だけでなく、私が適当に作成した下手な句でも考察してみよう。
天の川ごろごろ寝てゐる男かな
天の川が夜空に流れているという空間と男が部屋でごろごろ寝転んでいる空間とが存在している。さて、鑑賞者はこの二つの空間を脳裏に描いて、どう感じるのであろう。いい感じがするであろうか。驚きが感じられるであろうか。感動があるであろうか。どうであろう。恐らく何も感じられないであろう。嫌な感じがする方もいるかも知れない。よって、この句は下手だということである。似合わない空間の存在は下手ということである。「取り合わせ」の句の名句は、取り合わせの空間がとても素晴らしいのである。二つの空間が衝突しないような秀句を詠みたいものである。
2009.5.5