「俳句の宇宙」という観点から、結社の場合
「俳句の宇宙」という観点からすれば、結社は太陽の如く生まれ、成長し、最盛期を迎え、衰退し、そして消滅するのである。太陽には核があるのである。結社では当然として主宰者である。主宰者は最初から主宰者ではないのである。俳句に野望を持った一人の青年である。その青年がある結社に入るのである。その中で、新人として認められ、次第に力を付けていくのである。その有望な新人を中心として、同じような年代の人々があつまるようになるのである。そして、よなよな集まり、結社の主宰者や幹部連中の方々の方針に疑問を唱えるようになるのである。そして、青年から壮年にさしかかっているその人物が、
「よし、独立しよう。結社の基本方針は次のように定める」
と結社独立宣言を唱えるのである。その方針に感銘を受けた人々がその人物に従い、結社の旗揚げを行うのである。「小さな結社の誕生」である。誕生したばかりの結社は、文学運動エネルギーに満ち満ちた純粋に輝く小さな太陽であり、結社の人々はこの人物に夢を見るのである。結社の決まりはゆるく、主宰者は全体を見渡すことができ、困難な問題も主宰者の一発決済で片が付くのである。主宰者の力は強く、少ない弟子たちは従順に従うのである。
主宰者は実力があるので、俳壇にも知れ渡るようになり、新聞などの選者にもなり、全国的に弟子が集まるようになるのである。そしてそれぞれの都道府県に支部ができるようになり、全国的組織となっていくのである。組織の決まりなどもほぼ出来上がり、「ピラミッド型組織が完成」するのである。ここまで来ると主宰者は全てに目が届かなくなり、高弟と呼ばれる方々が組織や地方会員などへの指導の一端を担うようになるのである。主宰者が直接指導しているうちは問題はなかったが、弟子が地方会員を指導するようになると、指導の相違が出てくるのである。これが「組織の歪み」である。この歪みに反発して飛び出す者が出てくるのである。その中に力のある者がいれば、再び小結社として輝き出すのである。主宰者はこれを眺めるしかないのである。阻止したりしないのである。自分が昔そうだったからである。
主宰者は全体に目が届かなくなるほど大きな結社になってしまい、困ると考えているが、これも仕方のないことであるとある程度諦めるのである。結社の運営にとっては金銭的に会員が多い方が良いわけであるから、組織の拡張を阻止したりはしないのである。この頃になると組織は文学運動エネルギーを失ってしまうのである。この問題に対して、主宰者は何とかしなければならないと考え、同人会員にカツを入れようとするのである。そして主宰者は「新しい試み」を実践するようになるのである。それは俳句理論の再構築である場合もあるし、連句などの新しい俳句の実践運動などが考えられるのである。そうやって結社は再び輝き始めるのである。しかし、主宰者が歳をとってしまい病気がちになってくると、結社はついに終末を迎えるのである。主宰者は自分の死期を悟ると結社の行く末を考えるようになるのである。
「この結社を思い切って解散すべきか、あるいは有力者に継承してもらうか、それとも自分の子を主宰者とするか、あるいは何もしないで成り行きに任せるか」と悩むのである。大抵の場合、何人かの高弟がそれぞれの弟子を引き連れて、独立し、結社は解散するのである。「結社の終末」である。大結社が爆発し、その中からいくつかの小太陽、つまり小結社が誕生するのであるが、ほとんどが最初の主宰者に付き従った人々であるので、主宰者がお年寄りである場合が多く、文学運動エネルギーに乏しいのである。古くて輝きの乏しい太陽の誕生といってもよいのである。やはり途中から飛び出した若々しい太陽には敵わないのである。
このように結社は誕生し、消滅していくのである。これは俳句が誕生した頃から繰り返されていることであり、これからもこのパターンが繰り返されていくのである。「俳句の宇宙」という観点からの「結社の一生」である。
2008.1.19