好きと良さの把握
「この俳人が好きだな」とある人がいうのである。
「ではこの俳人のどこが好きであるかを明確に説明していただきたい」
などと言えば嫌な顔をされることが多いのである。
「あなたは、好きな俳人の何が具体的に好きなのかを明確に説明できないんですか」
などと追求しようものなら、
「お前のような奴にあの俳人の良さが分かる訳がない」でお終いである。
実際にはそんな追求を私はしないが、どうも生理的に好き嫌いがあるように感じられるのである。明確な理由なく、「あの句が、あの俳人が好き」ということがあるのである。特に女性に生理的に嫌われたらどうしょうもないのである。諦めるしかないのである。俳人も俳句もである。
私は基本的に生理的に嫌うことはないのである。子規という俳人が人格を含め、好きではあるが、子規は凡作も数多く詠んでいるなと思うのである。人間であるから生理的に好き嫌いがあることはどうしょうもないのであろうが、「生理的に」とは鑑賞にとって嫌な感覚である。やはり好きは良さと同じように説明できなければならないと思う。好きと良さとは接近してはいるが、基本的に異なる概念である。良さだけでなく、好きと感じたことを明確に把握する姿勢は鑑賞にも批評にも大切である。
2008.11.15