多作か寡作か
多作と寡作はどちらがいいのだろう。正岡子規は多作派だったそうである。であるから、駄作も数多く存在するということである。多作派にとってはそれは仕方ないことである。対象をいろいろな角度から詠むのである。私もこの方式である。言葉は悪いが、数多く打てば当たるのではないかと思うのである。また、一つの対象に没頭して句をいくつも詠んでいると、ふと「発見する」ことがあるのではないか。没頭すること、これは俳句だけでなく、芸術全体にとって重要なことである。
寡作の場合はどうであろう。これは初級者にはあまりお奨めできる方式ではないように思う。初級者は上手な俳句が最初から作れないのである。その少ない俳句をいくら推敲しても、駄作は駄作であろう。寡作方式は、上級者にとって相応しいやり方のように思う。上級者は最初から駄作は排除するであろう。駄作は文字にしないのである。であるから、最初からある程度の佳作ができてくるのである。それを推敲するのであるから、佳作が秀句になる可能性は高いのである。
自分は俳句が下手と思う人は、子規のように多作派であるべきである。一晩に二十三十と詠むべきである。「そんなにたくさんの俳句は詠めない」という初級者は、それほど才能がないということである。俳句を仲間と楽しむということでよいように思う。俳句は才能のある方だけの文学ではないのである。一般大衆が楽しむ文芸でもあるのである。
2007.10.27