添削の範囲

 俳句の初心者は先生から添削を受けるであろう。ほんの少し添削を受けるならまだしも、季語を変えられ、意味を変えられる場合がある。強い添削である。これを初心者は自分の作品として結社誌などに投稿するのであるが、これが本当に自分の作品であろうか。先生の作品といってもよいであろう。
 初心者の場合、「勉強である」と言うことでよしとしよう。しかし、高弟となっても主宰者から季語を変えられるような強い添削を受ける場合がある。季語を変える添削は添削ではないように思う。場面や意味が違ってくるのである。それは先生の作品といっても過言ではないであろう。

獺祭忌明治は遠くなりにけり     素人俳人・某氏 

降る雪や明治は遠くなりにけり    草田男
 
 これは草田男の盗作かと騒がれた作品である。某氏の方が早く雑誌に公表したものである。しかし、季語が異なり、場面が違うということで、草田男の創作として認められたものである。この例からもして、季語が異なれば違う作品なのである。故に季語を変える添削は添削の領域を越えているということである。
 では添削の範囲はどこまでが適切なのであろう。
 まず基本として、俳句の意味を変えないことである。初心者の作品は下手である。しかし、その下手なレベルを尊重し下手は下手なりに意味や季語を変えるべきではないであろう。また「てはにを」などの助詞を変えると見違える位上手くなる場合があるが、それは指導し、変えてもよいであろう。「てはにを」は俳句によってとても重要である。学んでもらうためにも添削は適切である。
 また、作品を添削せずに、「考えさせる」ということも大切であろう。
「この季語はどうもしっくりしません。変えてみては如何ですか」
というような指導がよいであろう。これは添削ではなく指導である。指導を受けた方も適切な季語を考えてくるであろう。考えてこなければ、それだけの才能ということである。それ以上仕方のないことである。無理に添削しても伸びないのである。「考えさせる」ということが一番大切である。指導者の立場にある方は、よく知っていることであろうが、初心者はこのことを知らないのである。
「あの先生は細かく添削してくれないわ。不親切ね」
などと言う初心者・初級者の方がよくいるのである。丁寧過ぎるのも不親切であるということが理解できるのは何年か経ってからである。人によっては一生分からない方もいるかも知れない。

                                        2007.10.5