俳句短歌の作り替え
                                       

 これはあまり表だって論じられてはいないが、俳句から短歌、短歌から俳句を作る人が相当数いるようである。専門家でも発想をいただくことがあるらしい。これは一概に悪いこととはいえないが、露骨すぎる場合もあるようである。

 ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも

 これは歌人上田三四二の有名な歌である。これを句に作り替えてみるとこんな風になるであろうか。

 散る花や光をひきて谷に消ゆ

 歌は調べがとても素晴らしいが、この句にはそれがなくなっている。俳句だから調べがなくなってしまうのは仕方がないが、しかし歌と比べると貧相な句である。調べを重要な要素としている歌を作り替えてもよい句はできないということであろう。
では、俳句から短歌はどうであろう。

 流れ行く大根の葉の早さかな

これは高浜虚子のあまりにも有名な句である。これを歌に作り替えてみるとこんな風になるであろうか。

 大根を洗ふ女の手元より一枚の葉の流れて行けり

 句に比べ質は落ちているが、しかし全く味わえないということでもない。俳句は短い。よって他の要素を加えないと長くはできにくい。その分だけ場面を作り替えたりすることができるので、全くの模倣とはならないのかも知れない。
 たったこれだけの例から断定的なことはいえないが、歌から句は作り替えにくいが句から歌は長い分だけ作り替えやすいのかも知れない。
 そういえば歌人で句から発想を得て歌をつくることもあると告白した正直な専門歌人もいた。だが歌から発想して句をつくる俳人は少ないようである。これははっきりとした数字を根拠にして主張しているわけではないので、私の感想である。

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