真の前衛派とは
私は写実俳句を好むが、以前前衛俳句を作っていたことがある。「ピラニアが饅頭食ってお正月」などと訳の分からない句を作っては喜んでいたのである。真の前衛派などと称して、優越感に浸っていたのである。真の前衛俳句は理解できないのである。意味はナンセンスなのである。意味ではなく、言葉の変化や驚きを楽しむのである。相手が理解できないから、低い水準で優越感に浸れるのである。
さて、真の前衛派にとっては言葉の連想が重要である。写生などは不要である。一つの言葉からいろいろな言葉を連想し、二つ三つの言葉を選択するのである。この言葉の組み合わせがいかに面白いかが重要である。「愛」ならば「水虫」などと言葉を選択するのである。「水虫への愛」などとつなぎ合わせれば面白いかな、となるのである。だが、真の前衛派は、邪道として非難されるのである。俳句である必要はないではないかということである。それで意味をほんの少し追い求める派が登場するのである。たとえば「春風の音は四分の三拍子」などはどうであろう。何となく、春風はそんなものかしら、と思わせてしまうであろう。しかし、実際はそんなことはないのである。四分の三拍子である訳はないのである。春風は勝手に吹いているのである。この辺りで亜流の前衛派は生き延びているのである。しかし、真の前衛派からすれば写実派よりも遙かに邪道なのである。現在、俳句の世界で真の前衛派はほとんどいなくなってしまい、またその価値もほとんど理解されていないので、残念ではある。
偏見を込めていうならば、感覚だけで生きている真の前衛派は、詩の王道なのである。裸の王様であり、文学の根元でもあるのである。この派がいなくなってしまった現在、とても寂しいかぎりである。しかし自分は再び戻ろうとは思わないのである。現実派に成り上がって、否、下がってしまったからである。