「実存俳句」についての考察
今までの俳句は、「写生」や「写実」「心象」などという概念で分類されている。このような古い分類で21世紀の俳句を語ることができるであろうか。これらでは分類しきれない俳句も存在するのではあるまいか。このようなことばかり考えていたら、ある夜、「実存」という言葉が突然浮かんだのである。実存という言葉には主義がつきものである。
では実存主義とは何であろう。そう簡単に説明できる概念ではないが、無理を承知で説明するならば、ものの本質よりもものの実存を優位とする考え方である。人間の本質は、理性をもった動物であるといえるが、個々の人間はそれぞれ個性をもち、その個人の感情は合理的に割り切れるものではなく、単独者として存在しているのである。その個人を本質論だけでは到底理解し説明できるものではない。そういう考え方が実存主義である。この主義は合理主義的機械文明に支配された平均的大衆と化する人々への批判という側面をもっている。この考えはなかなか平明に説明しきれるものではない。詳しくは専門書を読んでいただきたい。
私は、俳句の世界にこの考え方を導入したい。俳句には詠む対象があり、それを言葉で表現している。その表現の方法に価値が存在している。その表現の仕方が実存である。だがただ単に実存しているだけでは文学的価値はない。では「実存の文学的価値」とは何か、写生句を例にとって説明してみよう。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
ここには「鶏頭」という存在がある。鶏頭がただ存在しているだけならば俳句としての価値は存在しない。だが十四五本として存在しているのである。この「十四五本」がこの俳句の実存の最も高い価値である。多くの写生派たちが感動する数字であり、言葉の響きである。この数字以外では、鶏頭の実存の価値が減少するのである。よってこの俳句は最大価値のある実存俳句である。価値のないあるいは価値が最大に達していない実存句も存在するが、それらは今までのように写実俳句心象俳句と規定してもよいであろう。対象の最大価値のある俳句のみを実存俳句と規定しよう。
さて、写生句だけでなく、感覚の句も分析してみよう。
春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂
この句は、この作者の初期の代表作として知られている句である。句の価値ある実存は、春の水が濡れていると規定した点にある。水が濡れているのは当たり前のことではあるが、他の水、たとえば夏の水、秋の水、冬の水などと比べると春の水は濡れているという感覚がもっと実存的に似合っているというのである。哲学的な句である。多くの読者にこの感覚は支持されて有名になっている。春の水の表現はいくらでもあるであろうが、感動をよばなければ実存の文学的価値があるとはいえないであろう。ここでいう価値とは数学や物理学とは異なり相対的なものであり、基準が異なれば価値も異なってしまう。写実には写実の、心象には心象の価値基準があるであろう。ではこれらの共通する価値とは何であろう。やや曖昧な言い方をさせていただければ、それは「感動」ということであろう。 感動の基準は人それぞれ異なっている。実存はそれを肯定するのである。本質に先行するのである。多くの感動を詠んだ句はおそらく、実存の価値の最大値を示している句である。文学的価値と実存とは接近した関係にあるのである。
写実句であろうと心象句であろうと実存の価値の最大値に達している句ならば、実存俳句ということになるのである。
ここで問題となるのは、実存の価値基準である。再び写生を例にとるなら、それは多くの俳人が気づいていない対象の実存の発見ということである。観察による発見が些末主義に陥らず多くの人々に感動をよべば価値があるとするのである。
流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子
単純にいえば、流れ行く大根の葉の早さが生き生きと目に浮かび、それがとても素晴らしい情景だったのである。この発見は大根の葉に関するもっとも素晴らしい発見であった。実存の最大値の発見である。他の発見は遠く及ばなかったのである。この実存の発見が重要である。これは心象句においてはどうであろう。
暗黒や関東平野に火事一つ 金子兜太
この実存の価値は、暗黒の広がる関東平野に火事がたった一つ起こっているという現実ではあり得ない想像がとても暗示的で素晴らしいという点にある。想像の感動である。混沌とした暗黒の関東平野には火事が相応しいということである。心象句の多くは二つの要素の組み合わせの感動が多い。心象句の場合、組み合わせの価値を実存の価値の一つであると指摘したい。また比喩の場合、その対象にいかにその比喩が的確であるか、また新しさで満ちあふれているか、感動的であるかが重要である。その比類無き比喩である場合、実存が最大価値を示しているということである。
このように価値の実存は句の傾向を選択しないのである。普遍的概念である。子規派が作り出した「写生」という価値概念よりも、より大きく、より明確である。心象派の人々にも理解できるであろう。
実存の句を詠みたいと思う。そこには写実も心象も包括する大きな価値の存在が実存しているのである。
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