立たされた少年
小川先生は仕事で夜遅くまで学校に残っていた。日直でもあったので、懐中電灯を持って校内の見回りをした。時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。
先生が階段を上り、二階の三年の教室の廊下に行った時だった。懐中電灯を向こうの廊下の端まで照らすと、ずっと奥に誰かが立っているようだった。
近づいてみると、それは少年だった。三年五組の教室の前に立っていた。野球帽をかぶり、しくしく泣いていた。床に涙の跡がいくつかあった。
「こんな遅くまでどうしたんだ?」
と小川先生が訊ねると、その少年は泣きながら、
「はい、・・・・・・立たされているんです」
「先生にか?」
「はい・・・」
「何で立たされたんだ?」
「・・・・・宿題をぜんぜんやってこないからです」
「それにしても、こんな遅くまで立たせることはないだろう。早く帰りなさい。親が心配しているだろうから・・・・・」
「・・・・・・でも担任の先生がまだ許してくれません」
「担任の先生には、私からよく言っておくから早く帰りなさい」
「・・・・・はい」
少年は小川先生に頭を下げ、とぼとぼと階段を下りていった。ふと、先生は児童玄関にカギをかけたことを思い出し、少年の後を追いかけた。しかし玄関には誰もいなかった。大きな声で少年を呼んでみたが、先生の声が廊下に響き渡るだけだった。学校中を探してみたが、どこもいなかった。先生は帰ったんだろうと思い、自分も帰ることにした。すでに十一時を回っていた。
次の日、小川先生は三年五組の先生に訊ねた。
「先生のクラスの男の子が夜の九時過ぎまで廊下に立っていましたよ。ひどすぎるんじゃないですか」
「えっ!?私は子どもを立たせてはいませんよ。何かの間違いでしょう」
と言うので、他の三年の先生たちにも聞いてみたが、誰もそんなことはしていないとのことだった。三年の子どもたちの写真を確認してみたが、その少年はいなかった。念のため、他の学年の子どもたちの写真も確認したが、見あたらなかった。
(一体誰なんだろう?)
小川先生はとても不思議な気がした。
今回のことは、小川先生が仕事のし過ぎで、寝ぼけていたんだろうということになってしまった。だが、小川先生がその少年の立っていた場所に行ってみると、涙の跡がたしかにあった。やはり昨日のことは事実だと先生は思った。
何週間か過ぎ、小川先生がまた日直で夜遅く校舎を見回りしていたら、あの少年がまたあの場所に立っていた。今回もしくしく泣いていた。先生はその少年の名札をしっかりと見た。「三年五組 田村真一」と書かれてあった。
「どうしたの?」
「・・・・・・・先生に立たされたんです」
「なぜ立たされたの?」
「・・・・また宿題を忘れたからです」
「なぜ、そんなによく宿題を忘れるのかな?」
「ぼくは頭が悪いので、宿題をしたくてもできないんです」
「それは困ったね。どんな宿題かな?」
「算数のかけ算の問題です」
「どれ見せてごらん」
先生にそう言われて、少し戸惑っていたが、脇に置かれたランドセルから算数のドリル問題を取り出した。
「では、この算数ドリルを私と一緒にやろう」
そう先生に言われて、少年はやることになった。少年は、五組の教室に入り、窓側の一番後ろの席に座った。そこが少年の席のようだった。
「では電気をつけよう」
「いいえ、先生。ぼくは明るいのが嫌いです。月の明かりで十分勉強できます」
たしかに今日は満月であった。そう言えば最初に出会ったあの日も満月が輝いていた。
先生と少年は、一時間ばかり満月の光の中で勉強をした。宿題もきっちり行うことができた。
「先生どうもありがとうございます。これで担任の先生に怒られなくてすみます」
「所で、君の担任の先生は誰かな?」
少年はその質問に答えることなく、静かに頭を下げると、ランドセルをかつぎ、帰ろうとした。
「君、待ちなさい。まだ話しがあるから・・・・・・」
少年はすっと教室を出て、駆け足で階段を下りて行った。小川先生も階段を下りて追いかけたが、玄関にも一階の廊下にもいなかった。ふっと消えてしまったかのようである。
次の日、小川先生は「田村真一」という少年がこの学校に本当にいるのか調べた。学校にはやはりそんな名前の少年はいなかった。しかし、あの少年の付けていた名札はこの学校のものである。この学校にいたに違いないと思い、過去十年の子どもたちの名簿を調べた。しかし見当たらなかった。
(一体誰なんだろう?)
小川先生は少しも怖いとは思わなかったが、あの少年は誰なのか知りたかった。
少年は、毎日その場所に立っているのではないらしかった。それで、先生は過去の二回の出会いを振り返ってみた。そして、満月の夜に少年が現れるということに気がついた。
次の満月の夜、先生は夜遅くまで仕事をして学校に残った。他の先生がみんな帰ったことを確かめて、二階の三年生の教室に行った。すると少年がまた同じ場所にしくしく泣きながら立っていた。
「久しぶりだな。田村くん。今夜は何で立たされているんだ?」
「算数の宿題を忘れたために立たされているんです」
「ではその宿題を出しなさい」
少年はランドセルから算数のドリルを取り出した。先生はそのドリルの発行の年を見た。すると昭和五十二年発行と書かれてあった。今から約二十五年前のことである。
少年は三けたと二けたのかけ算が理解できなかったが、小川先生に詳しく教えてもらい、何とか理解できるようになった。
「先生ありがとうございます。これで担任の先生に怒られなくてすみます」
そう言うと少年は、ドリルをランドセルに入れて、帰ろうとした。今回も先生はいろいろと訊ねようとしたが、少年はすうっといなくなってしまった。先生は探してみたが、やはりどこにもいなかった。
次の日の放課後、小川先生は昭和五十二年の学籍簿を探した。そして大金庫の中に保存されているのを発見した。その学籍簿にはたしかに田村真一の名前があった。それには田村真一は、「昭和五十二年死亡」とあった。それ以外詳しい内容は書かれてなかった。先生は何とか詳しく調べたいと思い、それに書かれてある住所を訪ねてみることにした。
日曜日に小川先生はその家を探したが、すでに空き家であった。それで隣の人に訊ねてみることにした。丁度、隣におばあさんが庭で花壇の手入れをしていた。
「少しお訊ねしますが、隣の家の方はどちらへ行かれたんでしょうか?」
「隣の田村さんですか。十年ほど前に東京の方へ引っ越して行かれましたよ」
「あのー、田村さんには小学生の時に亡くなったお子さんがいらしたと思いますが、どうして亡くなったんでしょうか?」
「ええ、そう言えばそんな子がいましたね。たしか交通事故で亡くなったんですよ。学校から家に忘れ物と取りに戻った時に、車にひかれたそうですよ」
「何を忘れたんでしょうか?」
「さあ、そこまで分かりませんね」
おばあさんによく礼を言って、先生は家に戻った。何を忘れたのか、知りたかったが、調べることはついにできなかった。だが、その少年に直接訊いてみればよいことだということに気がついた。
次の満月の夜、先生はいつものように三年の廊下に行ってみた。やはり少年が立たされていた。
「さて、今夜は何の宿題を忘れて立たされたの?」
「算数です」
「では一緒にやろう」
先生と少年は、一緒に勉強した。それが終わった時に、先生はついに質問した。
「君が交通事故にあった時、何を取りに家に戻ったの?」
「先生は、知りたいのですか?」
「ええ、できれば教えてほしいな」
「・・・・・では教えましょう。先生にはいろいろとお世話になりましたから・・・・」
そう言うと少年は、算数ドリルを先生に渡した。すると少年はふっと消えてしまった。
どこへ行ったのか教室や廊下をしばらく探してみたが、いなかった。そして、先生がふと算数ドリルを見ると、それには血がついていた・・・・・・。
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