手 紙
暮れも押しつまった十二月の三十日に一通の手紙が政夫のアパートに届いた。政夫は大学を卒業して東京の商社に勤めて三年経っていた。いまだ独身である。手紙は大学の山岳部で一緒だった親友の俊郎からである。手紙の内容は、どうしても話しておきたいことがあるので、今から穂高の頂上に必ず来てほしいとのことであった。
俊郎とは大学を卒業してから一度も逢ったことはない。それにはある理由があった。政夫は迷ったが、手紙には必死の願いが感じられた。政夫は正月に実家に帰る予定でいたが、どうしても帰らなければならないということでもなく、穂高に行くことにした。穂高には俊郎と二度ばかり登ったことがあり、コースはよく知っていた。二人は学生時代、神風登山家と仲間から呼ばれていた。「そこに山があれば真っ直ぐ登る」という登山方法である。死にかけたことはしばしばあったが、二人で何とか乗り切ってきた。
政夫は冬登山の万全の準備をし、実家に正月は帰れないと連絡をして、穂高へ出かけた。長野についた時はすでに暗かったので、下の町で一泊をし、朝早く穂高に登り始めた。出発する時の天候は良かったが、だんだんと吹雪始めた。途中の山小屋についた時は猛吹雪であった。これ以上進むのは危険であると判断したので、ここでもう一泊止まることに決めた。政夫が休んでいるとその山小屋に政夫宛の一通の封筒が届いた。
山小屋の主人が不思議な顔をして政夫に封筒を持ってきてくれた。
「封筒があなたに届いています。しかし変だな。こんな所まで封筒は来ないはずだがな・・・。誰かのいたずらかもしれないなぁ」
政夫が開いて読むとこんなことが書かれてあった。
前略 政夫様
ここまで来てくれて本当にありがとう。でも、どうしても今夜、頂上で逢いたいんだ。今からここまで来てくれないか。これは決して悪戯ではない。信じてくれ。
十二月三十一日
天宮 俊郎
手紙はまるで吹雪の中で書かれたように濡れていた。しかし、たしかに見覚えのある俊郎の文字である。半信半疑であったが、俊郎がここに来ていることは間違いないと思ったので、頂上に登ることにした。
山小屋の主人は登ることに強く反対したので、手紙を主人に見せて説明した。主人もこれは誰かの悪戯であろうと言ったが、反対を押し切って出かけた。今夜中に戻ることを主人に約束をして山小屋を出発した。まだ吹雪は止んでいなかったが、この程度の吹雪は政夫にとってはたいしたことではなかった。
頂上に着く頃には吹雪は止んでいた。頂上に立ち、政夫は大声で叫んだ。
「おおい、俊郎。どこだー」
すると切り立った崖の方から俊郎の声が聞こえてきた。
「ここだー。政夫」
崖の下を覗くと俊郎が一本のロープにぶら下がっていた。体をロープに縛り付けて死んだように真っ青な顔をしていた。背中の服が血で汚れていた。大きな怪我をしている様である。
「俊郎。待っていろよ。今助けてやるからな」
政夫はロープを一生懸命引っ張ったが、ロープは全く動かなかった。ロープが岩に引っかかっている訳でもないのに、どうしても引き上げることができなかった。
(変だな。どうして上がらないんだろう)
「政夫。引き上げなくてもいいよ。僕を助けてもらおうと思って君をここに呼んだんじゃないよ」
「では、何でここに俺を呼んだのだ?」
「君に死ぬ前に謝りたいことがあってね、ここに来てもらったのさ」
「何のことだ?」
「別にとぼけなくてもいいよ。政夫、祐子のことだよ。君の好きだった祐子を僕が奪ってしまったことを詫びたいんだよ」
「・・・そんな昔のことなど、どうでもいいことさ・・・」
「いいや、僕は君の信頼を裏切ってしまった。山男としては失格だよ。・・・今だから本当のことを話そう。僕は祐子を奪うために君を山で殺そうと思ったこともあったのだ。何度かチャンスはあったけれど、結局できなかったけれどね」
「君に殺されそうになったことは一度もないよ。そう感じたことも全くない。それに祐子の気持ちが君が傾いていたのはうすうす感じていたよ。・・・祐子は君のものだ。・・・所で、祐子とはその後どうなったんだい?」
「祐子とは卒業してからも付き合っていたよ。婚約もしたさ。そして結婚する前にこの穂高に登ることにしたのさ。祐子もここにいるよ」
「えっ!?何処だい?」
すると今まで俊郎だと思っていたが、ロープの先には祐子がぶら下がっていた。
「おい、俊郎、何処だ?」
「政夫、祐子を是非助けてほしい。このまま死なせたくないんだ」
俊郎の声はぶら下がっている祐子の下の暗闇の中から響いていた。
「祐子のことを頼む。まだ愛している気持ちが少しでも残っているのなら・・・」
そういうと俊郎の声は聞こえなくなってしまった。
政夫がロープを再び引き上げると今度は上げることができるようになった。祐子を引き上げ、顔を叩くと祐子は意識を取り戻した。
「あっ、政夫さん。・・・俊郎は、俊郎は、どうしたの・・・」
そういうと祐子の意識は再び失われた。政夫は祐子を背中に担ぐと山小屋まで戻ることにした。吹雪はすっかりと止み、月も見えるようになった。ふっと頂上を見ると人影らしい姿が月を背後にして浮かんでいた。手を振っているようにも見えた。
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