登山家
坂井秀一は登山家である。学生時代から始めて十年が経っていた。秀一はグループで登ることよりも一人で気ままに登るのが好きである。
冬の槍ヶ岳に登る計画を立てた。それも北壁をたった一人で登る予定である。秀一は万全の準備をして、その切り立った北壁を登り始めた。最初、天候は良かったが、だんだんと雪が降り始め、ついには吹雪となった。
吹雪となり登ることができなくなり、休もうと思った。しかし横風でロープが揺れ、休むこともままならなかった。
(困ったな)
命の危険を感じ始めた。どうするべきか迷っていると秀一の右側五メートルほどの所に窪みらしきもの見えた。急いでその窪みに向かった。着いてみるとそこには直径一メートルほどの横穴が開いていた。 その穴の奥行きはそれほどなかった。一人が入れるほどしかなかった。秀一が中に入ろうとすると、
「ここは満杯だよ」
という声が穴の中から聞こえてきた。
よく見ると誰かがいる様である。秀一がライトを照らすとそこには登山家がいた。いや元登山家といった方がよいであろう。登山服は着ていたが、顔がすでにドクロであった。
下界では大いに驚く所であるが、このような状況では驚きが驚きではなくなっていた。 秀一はそのドクロに頼んだ。
「このままでは僕の命が危ない。何とか詰めて僕を入れてくれないか」
「まあ、いいだろう。山ではお互い様だからな」
ドクロは快く秀一の頼みをきいてくれた。秀一はドクロの隣に座り、いろいろと世間話をした。何故登山をするのか、今までどんな危険な目に遭ったか、どんな山に登ったか、山男であるがために女に嫌われたことなど、取り留めもない話ばかりであった。
「・・・所で君は私が来る前にどれくらいここにいたんだい?」
「そうだな、二時間位かな」
秀一は二時間ほどでドクロになるとは思えなかった。山では時として時間の感覚がなくなってしまうんだなと思った。ドクロは自分がまだ生きていると思っている様子である。秀一は彼がすでに死んでいることを本人には黙っていることにしようと思った。
「君は、このままここにずっといるつもりなのか?」
と秀一はドクロに訊いた。
「いいや、吹雪が止んだらまた登るつもりさ」
「君は一旦下山した方がいいんじゃないか。これ以上登ることには意味がないよ」
「なぜだい?」
その問いに秀一は黙ったままであった。
「・・・では一緒に登らないか」
と突然にドクロは秀一に言い出した。秀一は戸惑ってしまった。
「・・・いいや。君一人で登りたまえ。僕はまだここで休んでいるよ」
「そうかい。・・・では一人で登ることにするよ」
そう言うとドクロは穴から出ていこうとした。
「待ちなよ。最後に訊くが、君の名前は何と言うんだい?」
「・・・・・・」
その質問には何も答えずドクロは穴を出て、北壁を登り始めた。最初、ハンマーを打つ音が響いていたが、だんだんと遠くなり、ついには聞こえなくなってしまった。
秀一は彼が誰なのかしばらく考えていた。
(もしかしたらあのドクロは俺ではなかろうか。俺の末路があのドクロということであろうか。・・・恐らくそうなのであろう。俺の登山家としての末路がドクロか・・・)
そう思うと可笑しさがこみ上げてきた。そしてだんだんと眠くなってきた。
秀一が起きると朝になっていた。日差しが穴の中にも入り込み、青空が円形に目に広がった。穴から外を見ると槍ヶ岳には珍しく快晴であった。
「さて、登ることにするか。俺は登山家だものな」
そう呟くと秀一はハーケンとハンマーを取り出し、再び登り始めた。北壁にハンマーを叩く音が響き渡った。とても気持ちのよい登山をすることができた。
その後、この不思議な出来事を登山雑誌に投稿した。そしてそれは雑誌に載り、雑誌社の話によればなかなかの反響があったそうである。
ある日、一通の手紙が雑誌社を通じて秀一に届いた。それにはこんな内容が書かれてあった。
拝啓 坂井秀一様
あなた様の不思議な体験を読んで感動いたしました。つきましては私の孫のことについて、あなた様に是非ともお尋ねしたいことがありますので、お会いしたく存知ます。しかし私は病身であり、出かけることができません。大変失礼かとは存知ますが、こちらへお尋ね下さいませ。是非とも宜しくお願いいたします。
二宮 浩一郎
全く知らない名前であった。また手紙と一緒に十万円が添えられてあった。住所を見るとそれほど遠くでもないので、次の日曜日に会いに行くことにした。その住所に、そちらへ出かけるという内容の葉書を書いた。また十万円は多すぎるので電車賃だけ戴き、後は返そうと思った。
電車で二時間ほどの町であった。住所を探しながら行ったが、すぐに分かった。町の人々のよく知っている名家であった。その場所に行くと大きな屋敷があった。門から玄関までが遠く感じられた。門のブザーを押すと、相手は待っていたかのようメイドさんらしき人物が現れ、屋敷に案内してくれた。屋敷に入るとすぐに奥の離れに通された。そこには一人の老人が寝ていた。老人は上半身を布団から起こし、挨拶をした。傍らには秘書らしき男性が二人座っていた。
「遠い所をようこそお出で下さいました。秀一さん、ありがとうございます。私はこのように病気でしてね。この格好で失礼しますよ」
「いえいえ、こちらこそ。・・・さっそくですがお尋ねしたいことがあるそうですが、どんなことなのでしょう?」
「ええ、実は孫の弘樹のことなんですが・・・。弘樹は登山が好きでしてね。冬の槍ヶ岳で遭難したんですよ。貴方の体験を読んで、もしかしたら貴方の会った人物は、弘樹ではないかと思ったんですよ。それで詳しく話をお訊きしたいと存知まして貴方をお呼びしたのですよ」
「そうですか」
秀一は彼の服装や話した内容などを詳しく説明した。
「おお、その服装は修一が遭難した時と全く同じ服装です。それに話の内容も弘樹と思われます。弘樹は幼い頃に両親を交通事故で失った可哀想な孫なんです。私はまだ弘樹が死んだとは信じておりません。是非とも秀一さんに弘樹を助けてほしいと思います。お金はどれくらいかかってもけっこうですから、孫の・・・骨だけでもいいですから見つけてほしいのですよ。宜しくお願いいたします」
老人は孫の死を表面上認めてはいないが、心の底では踏ん切りをつけたい様であった。孫を成仏させたいと考えているように感じられた。
「分かりました。では孫の弘樹さんを見つけて来ましょう。・・・でもいいですね。どんな結末でも・・・」
「ええ、構いません。宜しくお願いします」
秀一は三日休みを取ってあの北壁に向かった。壁を登るに従い雪が降り始め、あの場所まで行くと猛吹雪となってしまった。横の方を眺めると例の穴があった。急いでその場所に避難した。すると例のドクロが・・・いた。
「久しぶりだね。弘樹くん」
「僕はもはや弘樹ではない・・・」
「弘樹くんだろ。君のおじいさんから君を連れてくるよう頼まれたんだよ」
「・・・・・・」
「どうして答えないんだい。弘樹くん」
「・・・君は山が好きかい」
「ああ、大好きだよ」
「・・・僕も大好きだ。山で死ねたら本望だと思っている。・・・そして僕は死んだ・・・」
「なら死んだ弘樹くん。僕と一緒に下山してくれないかい」
「・・・・・・」
「どうして答えてくれないんだ」
「僕の肉体は滅びた。しかし魂はこの山と共にある。この山があるから僕の魂はあの世に行かなくて済むんだよ。僕は毎日大好きな山登りを楽しむことができる・・・」
「でもおじいさんはとても心配しているよ。その滅んだ肉体の一部だけでも僕に呉れないか。そうすればおじいさんも納得すると思うけれどね・・・」
「・・・・・・なら持って行くがいい」
そう言うとドクロは胸を開き、肋骨を二三本自ら折り取った。そして弘樹であることを証明する財布と一緒に秀一に手渡した。秀一はそれらを丁寧に紙で包んで袋に入れた。
「それではこれでお別れだね。おじいさんに伝えることがあれば聞いておくよ」
ドクロは何も答えなかった。しかし秀一の心には聞こえていた。
秀一は穴を出て、壁を下り始めた。ドクロは秀一を上からじっと眺めていた。見送りをしている様であった。
山を下りてすぐにあの屋敷に向かった。二宮翁に骨と遺品を手渡した。二宮翁は秀一の話を泣きながら聞いていた。
秀一が帰る時、二宮翁はお礼として袋に入った礼金らしきものを手渡した。必要経費だけでいいと断ったが、それではこちらの気が済まないということで受け取ることになった。
帰る時、二宮翁はこんなことを言った。
「秀一さん、貴方は弘樹に何となく似ていますよ。今度弘樹に会うことがあったら、また下山するよう強く進めて下さい」
それには何も答えずその場を秀一は去った。
秀一は今でも時々、あの北壁に登っているということである。
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