鯉と詩人その10
                                     

 二週間後、詩人は沼にやって来た。いつもの釣りの場所に座ると釣り竿を垂らした。するとそれを合図にいつものように鯉が水面に顔を出し、
「詩人よ、釣り竿がいつものとは違うではないか」
「ええ、新しい釣り竿ですよ。ついもの釣り竿屋へぶらりと行ってみると、とても魅力的な竿があったんでつい買ってしまったんですよ」
「詩人よ、まともな釣りをしないのに何故、竿に興味を持つのだ?」
「待って下さい。私は釣りが大好きなのですよ。鯉さんに出会うまではまともな釣りをしていたんですよ。竿だけでなく、浮きや針、糸なんかもけっこう選んでね。鮒釣りは名人級なんです。でも、この頃はまともな釣りはしていませんけどね」
「詩人は以前、釣道は嫌いだといっていたではないか。それは嘘だったのか?」
「いいえ、道という言葉が付くものが嫌いだといったのであって、釣りそのものを否定した訳ではありません。魚をいかに芸術的に釣り上げるかが重要なのです」
「芸術的にというが、釣りは芸術なのか?」
「ええ、私は芸術だと思います。娯楽だという方が多いですけれど、釣りの本当のすばらしさが理解できないんですよ。釣り人にもただの芸と思っている方が多いのは残念です」
「そんな風に考えているのは、詩人だけではないのか?」
「そうかも知れません。だが、釣りは上質の感動を与えてくれます。それは私にとって詩歌に近いものです」
「詩歌に近いか?」
「ええ、永遠の感動を与えてくれるものは芸術です」
「たしかに獲物を釣り上げた時は、喜びという感動を味わえるが、それは一瞬ではないか。またそれは形を成してないではないか」
「一瞬ではありますが、それが永遠でもあるのです。絵画や詩歌のように目に見える形を成していませんが、型は存在するのです。一瞬は永遠につながっているのです」
「よく分からんな」
「それは鯉さんが釣られる立場にあるからです。釣る立場になれば体感理解できます。ですが、鯉さんはその立場にはなることはできませんので、永遠に理解することは難しいでしょう。それは鯉さんの宿命でもあるのです」
「それは詭弁であろう。議論に詭弁で勝ってもしかたないであろう」
「そんなことはありません。永遠の真理の一つです」
「そういえば、詩人に似た男のことを思い出したぞ」
「えっ、それはどんな方ですか?」
「聞きたいか?」
「ええ、是非とも」
「今から四百年くらい前であったかのう。ある夕暮れに一人の武士がこの沼にやって来たのだ。名前を武蔵とか何とか言っていたな。その男のことを話して進ぜよう。その男は沼で何かを洗っておった」

鯉『おい、そこの男。困るではないか』
武蔵『おぬしは誰だ?』
鯉『わしはこの沼のぬしだ。今、お前が洗っている包丁から血の匂いが流れだし、沼全体がその匂いでくさくなってしまったではないか』
武蔵『これはこれは失礼いたした。この沼のぬしであったか。わしは武蔵と申すものである。今、この二つの刀で人を斬ってきたのだ。それを洗っておったのだ』
 そういうと、武蔵は二つの刀を紙で拭いて素速くサヤに仕舞った。服には血しぶきがなまなましく付いていた。
鯉『一人や二人ではあるまい。いろんな人間の匂いがするぞ』
武蔵『吉岡一門と決闘してきたのだ。それも一対数十人とである。斬って斬って斬りまくってきた。何人斬ったか覚えてもいない』
鯉『そんなに殺生をやって心が痛まないのか?』
武蔵『心が痛むということはない。気を抜けば私が斬り殺されておった。無我夢中で斬っては逃げ、斬っては逃げして何とかここまで逃げのびることができたのだ。斬っている時は心に鬼しかおらなかった。鬼のお陰で今、生きておるのだ』
鯉『今も鬼はいるのか?』
武蔵『眠っておるようだ。今は理性が心を支配しておる』
鯉『その理性に問う。この決闘で何を得たのだ?』
武蔵『人を斬ることの悟りを得た。それは一つであるが、いくつかの事柄の集合体である。すなわち、人間を人間と思うな。理性を捨てよ。鬼となるべし。相手の眼を見るな。姿を見よ。急所に力一杯斬り込むべし。相手の人生を考えるな。自分のことだけ考えよ。逃げる時は逃げよ。などである。まだあるかも知れない。自分の持つ力の限り斬るべしということだ』
鯉『悲しい悟りだな』
武蔵『悲しみも生の前には意味が無い。生きることこそ全てに優先されるのだ。これはけものの世界に通じる悟りである。しかし喋れる鯉にはこの理屈は理解できんであろう』
鯉『詭弁であろう。詭弁の悟りであろう』
武蔵『わしは今ここに生きている。わしの生のために多くの人間が死んでくれた。そのことに感謝する気持ちはある。成仏することを願ってやまない。多くの死の上に生があるのだ。これは必然である』
鯉『だが戦わなければそれで済むことだ』
武蔵『戦わぬ武士は武士ではない』
そう言うと武蔵は帰ろうとした。
鯉『まて、武蔵よ。額に血しぶきが付いておるぞ』
武蔵『おお、そうであったか』
 そういうと武蔵は沼の水で顔を洗った。憑き物が落ちたようなさっぱりとした顔となっていた。
武蔵『では、まだわしを探している者たちがおるかも知れんから、これで失礼いたす』
そう言って武蔵は小走りに去っていった。

「どうだ。武蔵は詩人に似ているではないか」
「そんなことは無いでしょう」
「詭弁の使い方は剣のように実に上手であったぞ。詭弁には二刀流が相応しいようだな。こっちがだめならあっちとな」
「うーん、今日の鯉さんは比喩がうまいですね。さて帰るといたそう」
そういうと詩人はそそくさと帰ろうとした。
「まて、詩人よ。新しい竿を忘れておるぞ」
 それを聞いて詩人はにやりと笑い、竿を拾い帰っていった。鯉は一跳ねして水面に潜っていった。がまがえるがいつもの調子で啼いていた。
                                          つづく

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