鯉と詩人その11
                                         
             
 詩人はいつものように沼にやって来た。いつものように釣り始めるはずであったが、その前にスケッチブックを取り出した。それから釣り竿を沼に垂れた。するといつものように鯉が水面に顔を出した。
「詩人よ、何をしているのだ?」
「ええ、本業の挿し絵を描こうと思っています」
「本業の?」
「私の仕事は挿し絵画家ですので、今日は鯉さんの絵を描くつもりです」
「私の?」
「ええ、鯉さんの絵です」
「わしは描かれることは好かんな」
「鯉さんは自分の姿を見たことがあるのですか?」
「無いな。ここには鏡は必要ないんでね」
「そうでしょう。是非鯉さんには自分の姿を見てほしいものです」
「嫌だな」
「もう描き始めています。じっとしていて下さい」
そう言われて鯉は、しばらくじっとしていた。三十分ほどして、
「できましたよ。鯉さん」
「上手に描いたんだろうな」
「ええ、よく似ていると思います」
「どれ見せてごらん。批評してあげよう」
詩人は鯉にその絵を示した。鯉はしばらくじっと見入っていた。
「似ておらんな」
「何故似ていないと言うんです。自分の姿を見たことはないんでしょう」
「似ておらんな。わしの髭はもっとピンと伸びて立派であろう。それに眼はそんなにクリクリしてはおらんだろう。背鰭はもっと凛々しいであろう。詩人の絵はまるで貧弱な鯉そのものだな。ナマズかと思ったぞ。わしは何百年も生きているのだ。それなりに風格があってもよかろう」
「私は写実風に描いたつもりです。何の悪意もありません。常に教養が風格に現れ出るものではありません。立派に見えるから知性が高いとも限りません。事実は事実として認識すべきです」
「詩人よ、その絵をどうするつもりなのだ。まさか挿し絵に使うんじゃないだろうな。そんな恥を多くの人々にさらしたくはないぞ」
「鯉さんがそれほどまで言うんなら止めておきましょう」
「ではその絵はどうするつもりだ?」
「私の記念として取っておきますよ。鯉さんと私とのですよ」
「それならそれでよい」
「たが昔わしのことをとても可愛いといってくれた人間の姿をした女がいたがな」
「えっ、人間の姿をした女ですか?」
「そうだ。雪女と世間では言われていたが・・・・・」
「雪女はこの世にいるんですか?」
「ああ、いるとも。民話の世界だけに棲んでいるのではない」
「やはり美しいんでしょうね」
「間違いなく美しかった」
「是非、その女性の話をしてくださいな」
「うむ、詩人がそこまでいうんなら話して聞かせよう。今から百年ほど前のことだったな。ある寒い冬のことであった。夕方近くに肌のとても白くてやせ細り、白い着物を着た美しい女がこの沼の淵にじっと立っていった。粉雪が静かに舞い散っていたな」

鯉『こんな所で何をしている?』
雪女『えっ、今私に話しかけたのはお前さんかい?しゃべれるなんて化け物の鯉かい?』
鯉『けっして化け物ではないが、この沼のぬしだ』
雪女『そうかい・・・・・』
鯉『話を戻そう。お前は誰だ?こんな所で何をしようとしているのだ?』
雪女『世間では私のことを雪女と呼んでおるよ。だが誰も私の正体は知らないがね。人間の世界にずっと住んでいると時には一人になりたいもんさね。それでここに来たのさ。ここなら誰もいないと思ったけれど、あんたのような化け物の鯉がいるとは思わなかったよ』
鯉『雪女がいるとは聞いたことがある。自分の正体を知った者を殺してしまうと言われているが、本当かい?』
雪女『ああ、そうだね。殺すことが決まりとなっている』
鯉『それならわしも殺されてしまうのだろうか?』
雪女『あんたは人間じゃないんでね。それに化け物を殺してもしかたないねえ』
鯉『何度も言うが、わしは化け物ではない。理性ある生き物だ』
雪女『そうかい。勝手におしよ。まあ私と同じようなもんかいね』
鯉『少し違うように思うが、一つ聞きたいことがある。人間世界に住んでいるといっていったが、どのような生活をしているのだ?』
雪女『それを聞いてどうするのよ。あなたが知ってもしかたのないことじゃないかい』
鯉『これは知的好奇心から知りたいということだ。教えてほしい』
雪女『そうかい。ここで会ったのも何かの縁だから教えてあげようかい。私はある村で人間の妻となっておるよ。子供も二人生まれ、幸せに暮らしているわね』
鯉『その幸せな雪女がどうしてこんな所に来るのだ?』
雪女『それは誰も私の本当の姿を知らん。こういうへんぴな場所へ来て昔の姿に戻り、昔を懐かしく思っているのさ。それに雪女は寒くて侘びしい場所が大好きなんよ』
鯉『亭主や子供を愛してはいないのか?』
雪女『それは好きになって押しかけて結婚したんだもの。好きさ。子供はもっと好きだけどね』
鯉『亭主とは何処で知り合ったのだ?やはり山の中でか?』
雪女『そうさね。やはり山の中だね。そんな所しか知り合う機会はないね』
鯉『よく結婚できたものだな』
雪女『私たちはみんな美人だよ。男はほとんどいちころだね』
鯉『私たちだって?雪女は何人もいるのかい?』
雪女『当たり前だよ。結婚もするし子供も生むんだよ。何人もいて当然だよ』
鯉『たしかにそうだな。何人もいて不思議ではないな。みんな人間世界に隠れ住んでいるのかな?』
雪女『山奥にひっそりと棲んでいる者もおれば、私のように人間世界に住んでいる者もおるね』
鯉『そうか。他の妖怪と違って人間に追われるということは無いんだな。人間世界にとけ込めば滅びることは無いということか』
雪女『化け物の鯉にいわせると私は妖怪ということかい。まあ人間もそんな風にいっているようだが・・・・・』
鯉『わしは化け物でも妖怪でもない。理性ある生き物である』
雪女『まあ、そう言うことにしておきましょう。鯉とおしゃべりができて、何となくすっきりとしたよ。よく見ると可愛い鯉じゃないか。またここに来ることにしよう』

「そう言って、吹雪とともに去っていったが、その後何度かここへ来ては亭主の愚痴をこぼしていたよ」
「鯉さんを可愛いといったのは、容姿のことではなくて性格のことではないでしょうか?」
「詩人よ、そううがった見方をするでない。容姿も含めすべてが可愛いと言ったのだ」
「まあ、そう言うことにしましょう。所で、雪女は今でも人間世界にいるのでしょうか?」
「そうだな、恐らく何人もいると思う。これからもずっと人間世界の中に棲み続けるのではなかろうか。騙される男がいるかぎりな。詩人は騙されることはないだろうが、はははははははははは・・・・・」
「いえいえ、雪女なら騙されてみたいと思いますよ。人間は嫌ですが・・・・」
「妖怪ならいいとは、やはり詩人らしいな。雪女でも何でもよいから、生涯の伴侶を見つけることだ大切であろう。特に詩人の場合は・・・・」
「・・・・だいぶ遅くなりましたので、今日は帰ります。ではでは」
 そう言うと詩人は、釣り竿を持ち、帽子を被り、スケッチブックを持って帰っていった。 鯉は見送ると一跳ねして水面に潜っていった。がまがえるがいつものように鳴いていた。

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