鯉と詩人その14
ある夏の夜、一人の美しい女が沼を訪れた。女は大きく息を吸い込むと、沼やその周囲に吹きかけた。すると水面に氷が張り始め、周囲の松林も雪で白くなった。沼の底の水も冷たくなっていった。鯉は眠っていたが、その寒さに飛び起きて、水面に顔を出した。薄い氷がパキンと割れた。
「何だこの寒さは!」
「久しぶりではないかい。鯉さん」
「おお、お前は雪女ではないか!十年振りかのう」
「そんなになるかねえ。ご無沙汰しておりました」
「こんな夏にも雪女は生きていられるんだな」
「ええ、私たちは暑いからといって死んでしまうことはないんだよ。人間の姿の時は人間とほとんど同じなんだよ。しかし、今のように雪女の姿の時は、寒くないとだめだがね」
「今日はどうしたんだ?」
「ああ、亭主と別れてきたんだよ。ついに正体がばれてしまったのさ。これは仕方のないことだがね」
「何故、仕方のないことなんだ?」
「それは私たち雪女はほとんど年をとらないんでね。しかし相手はだんだんと年をとる。人間の十年は私たちの一年なんだよ。最初の内は女房が若いことを喜んでいるけれど、だんだんと不思議に思うようになるんだよ。それで最後に訊くんだよ。お前は人間かってね。それで結局ばれてしまうのよ」
「哀れな運命だな。それで亭主は殺したのかい?」
「いいや、殺してはいないよ」
「では子供でもいたのかい?」
「ああ、子供は一人生んだよ。もう年頃の娘になったがね」
「つかぬことを訊くが、雪女が生んだ女の子は、雪女になるのか?」
「ああそうだね。男の子の場合は全て普通の人間になるけど、女の子の場合はその半分が雪女になるよ」
「では、その娘はどっちなのだ?」
「幸か不幸か雪女だね」
「では、その娘はどうなるのだ?」
「そうさね。私と同じ運命をたどることになるんだろうね。多分・・・・」
「亭主はどうした?まさか殺したんではなかろうな?」
「ああ、殺さなかったよ。娘が泣いて頼むので殺さなかったよ。亭主に妖術をかけて私や娘のことを忘れさせたよ。私たちのことを捜すこともないさね」
「亭主はお前のことを愛していたのだろう?」
「多分ね」
「お前はどうなんだ?」
「ええ、好きで一緒になったからねえ」
そう言うと女は一粒の涙をこぼした。その涙は氷の粒となって沼に落ちた。
「・・・・・・これからどうする?」
「そうだね。昔の住処のお山にでも帰るとするよ」
「人間世界に未練はないのか?」
「ああ、もう人間世界に未練はないさね。悲しい思いを繰り返すのはもう嫌だね。他の男と一緒になる気もないね。一人でお山で静かに暮らすことにするよ」
「娘はどうするつもりだ?」
「娘は生まれてからずっと人間世界で暮らしていたからね。お山の生活には耐えられないだろうね」
「娘は年頃なんだろ?」
「ああ、私に似てとても美人だよ。たいていの男は惚れちまうよ」
「実はわしの知り合いでとてもおもしろい男がいる。人間の女をとても嫌っている。雪女の方がいいと言うんだ」
「そんな男がいるのかね。詳しく教えてくださいな」
「その男は詩人という。少し変な詩を書く売れない詩人である。多少の教養を持ち合わせてはいるが、実用性はない。独りよがりの所があるが、純粋な一面を持っている。少し偏った性格にも思うが、ユーモアを解する所もある。人間の女には幻滅している。恐らく以前、大好きな女性に大きく振られたのだと思う。それでそんな考えに至ったのであろう。職業はイラストレーターといっていた。これで生計は立てられるらしい。私は下手な絵描きだと思うが・・・。また、独り住まいである。恐らく部屋は汚いであろう。夏でも平気で二三日は下着を着ていられる男だ。不潔と思うが、自分はそう感じていないらしい。年齢は恐らく三十歳前後であろう。よくここに来る位だから、友達は少ないようだ。釣りは好きであるが、どうも自分が自慢するほどの腕ではないような気がする」
「なるほど、大体分かったよ。だがそんな偏った性格の男は、娘には相応しくないように思うけどね」
「それは分からないであろう。雪女でもいいという男だから、あえて隠す必要もないであろう。気が楽であろう」
「雪女でもいいというのは気に入った。しかし、その男には娘の正体は教えないでほしいよ。亭主には雪女の正体をバラしてはいけないというおきてがあるんでね」
「ああ、分かったよ。詩人には娘さんの正体を秘密にしておくよ」
「ああ、そうしておくれ。今日はどうもありがとう。いい話を聞いたよ。さて私は帰ることにするよ。周りの雪もこの暑さで解けそうだからね、雪女の姿でいられるのも、もう無理なようだよ」
そう言うと雪女は普通の女の姿に戻っていた。そして沼につながっている細い松林を歩いていった。鯉はくしゃみを一つすると沼に潜っていった。雪が解け、松の枝から滴がしたたりやまなかった。
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