鯉と詩人その15
                                            
 ある蒸し暑い夏の昼下がり、詩人はいつものように沼に釣りをするために出かけようとしていた。家の前で愛車の五十CCバイクの後ろに釣り竿を縛っていた時、長袖のピンクのワンピースを着た一人の女がその前を通ろうとした。するとその女は、急にふらふらとして詩人の前に倒れた。持っていた旅行鞄らしきものも転がった。詩人は驚いて近寄った。詩人はとても驚いた。恐ろしく綺麗な女であった。女は汗をかき、とても苦しそうだった。
「・・・・お水をください。体がとても熱い・・・・」
 そう詩人に呟いた。詩人は日射病であろうと思い、道の真ん中にこのままにしておく訳にもいかないので、女の鞄を持ち、抱きかかえて家の中へ運び入れた。居間、ーといっても八畳部屋と六畳部屋しかないのであるがー、八畳部屋に女を横たえた。それから水を台所から汲んできて、女に飲ませた。女はふっと溜息をつき、安心した顔をすると眠ってしまった。
 このまま畳の上に寝ころばせておく訳にもいかないと思ったが、しかし詩人には布団が一組しかなかった。それも二年前の夏に一度干したっきりの不潔な布団である。
(どうしよう?汚い布団に寝かせるべきか、それともこのまま畳の上に寝かせておくべきか?)
 詩人にとってこれは大きな悩みであった。畳の上のままでは冷たい男のように思われるし、けれど、汚い布団では、起きてから何と思われるか知れたものでないからである。詩人は迷った・・・・・。だが、決心した。
 六畳部屋の万年床の敷き布団を八畳部屋に運び、女を寝かせた。そして冷たいタオルを用意し女の額に乗せた。それから汚い部屋を片づけ、女の横に座り、しばらく女の横顔を眺めていた。女からとてもいい香りが漂っていた。
(何て美しい女なんだろう!)
 詩人が本屋でいつも立ち読みしている雑誌のグラビアの女より遙かに綺麗であった。髪が長く、色白で鼻筋が通り、まつげは長く、口元は小さくきりりとひき締まっていた。体はやせてはいたが、脚は長く、曲線美は服の上からも感じられた。年は二十二三歳ぐらいに感じられた。
 どれくらいの時間が過ぎたであろうか。女はふと眼を覚まし、上半身を起こした。
「あっ、無理しちゃいけませんよ」
「貴方様が助けてくれたんですね。本当にありがとうございます。気分が少し良くなりました。私はあまり丈夫な方でないので、この暑さで気分が悪くなってしまったようです。あっ、挨拶が遅れましたが、私の名前は中井雪江と申します。一人で旅をしておりました」
「女の一人旅は珍しいですね。私は詩人と申します。このような汚い部屋に寝かせて申し訳なく思っています」
「そんなことありませんわ。ちゃんと片づいていますわ。あのー、申し訳ないんですが、もう少しここで休ませてくださいませんか。まだ体の調子が良くありませんので」
「私はぜんぜん、全くかまいませんが、お医者さんへ行く必要はありませんか?」
「ええ、お医者さんへ行くほどのことはないと思います。もう少し休めば良くなると思います」
「では、何か買って来ましょう。お腹も空いたでしょうから」
「いえいえ、お構いなく、休ませていただくだけで結構ですから」
「いや、私も少しお腹が空いていますので、ちょっと待っていてください」
そう言うと詩人は、部屋を出て、近くのお店屋に行った。そこでリンゴなどの果物や飲み物、ゼリー、パンなどを急いで買ってきた。女は敷き布団の上で横になって休んでいた。部屋の隅に置いてあった小さなテーブルを出すと、女と向かい会って座った。今買ってきた食料はテーブルの上に置いた。
「りんごは私が剥きましょう」
 そう言うと、女は台所に行って躊躇なく包丁とお皿を持ってきた。まるでそれらの在処が最初から分かっているかのようであった。女の細い手からするするとリンゴの皮が伸びた。一度も切れることなくリンゴの皮は剥けた。
「雪江さんはとても器用なんですね」
「そんなことありませんわ」
 手を休めることなくリンゴを八切りにしながら雪江は微笑んだ。
 詩人はこのような場面は初めてであった。女と向き合って、女にリンゴを剥いてもらうことは。否、母が小さい頃そんなことをしてくれたが、この美しさの比ではなかった。また母より遙かに器用であった。
 雪江はリンゴを少しずつ食した。食べたというには上品さが漂っていた。小さなおちょぼ口が印象的であった。
「雪江さんは何処へ行こうとしていたのですか?」
「あてのある旅という訳ではないのですけれど、近くの少し名の知れた寺院を見学しようと思っておりました」
「お寺見学とは、若いのに古風な趣味をお持ちなんですね」
「趣味という訳ではありませんが、古いものは好きです」
「詩人さんは、どんなご趣味をお持ちなんですか?」
「ええ、釣りですね。この間一メートルもある大きな鯉を釣り上げたことがありますよ。その鯉はとても生意気で・・・・・」
「えっ?! 生意気な鯉がいるんですか?」
「えっ、ええ、まあ世の中は広いですから。ははははは・・・・・・」
「詩人さんはおもしろいことをいうんですね」
 そう言って雪江は口に手をあてて微笑んだ。微笑む姿もとても可愛らしかった。その姿はとても日本的な女性であった。
「所で、雪江さんの姿を描かせくださいな。私はこれでもプロのイラストレーターです。雪江さんのような美しい女性を是非描いてみたいと思います」
「まあ、詩人さんはお口がお上手ですこと」
「いや、私は口べたで通っているんです。これは真理です。是非お願いします」
「ええ、いいですよ。私でいいのなら、気の済むまで描いてくださいな」
 詩人はスケッチブックを取り出すと、一心不乱に描き出した。どれくらいの時間が過ぎたであろうか。出来上がった頃には、外は既に薄暗くなっていた。
「やっと出来上がりました。雪江さん」
「まあ、見せてくださいな」
 詩人は雪江に絵を見せた。雪江はしばらく眺めていたが、
「まあ、これが私の姿?詩人さんは私の内面まで描ける方なんですね」
 雪江は決して上手とは言わなかった。しかし詩人を傷つけるようなことも言わなかった。詩人の絵は写実的ではなく、やはりどこか変わっていた。だが、それを個性として認める出版社もいたのである。しかし普通の人は上手とはなかなか思わなかった。
「所で、雪江さんは今日、どこのホテルに止まろうと思っていたんですか?」
「ええ、一人旅ですので、決めたホテルはありませんわ」
 それを聞いて詩人は決心して切り出した。心はどきどきしていた。このことは描きながらも、いつどのように切り出そうかと悩んでいたことだった。
「だったら、ここに一晩、泊まったらどうですか?・・・いえ、決しておかしなことはしません。けっして、です。良かったらですけれど・・・・」
「・・・ええ、お願いしますわ。泊まる所もありませんし、詩人さんがおかしなことをするとは思ってもいませんわ」
 あっさり雪江は了解してくれた。心の中で「万歳! 」と叫んだ。
 詩人はとても不思議な気がした。朝起きた時は、こんな出来事があるとは全く想像もしなかったのである。またいつものように鯉と釣りでもしようかと思っていたのである。それはそれで楽しいことであるが、こんなどきどきすることがあるとは・・・・・・。人生は悪いことばかりではないと、つくづく思った。
「もう夕食の頃ですから、詩人さん少し待っていてください。食事の準備をしますからね」
「えっ! いいですよ。外にでも食べに行きましょう」
「だめですよ。お金がかかってしまいます。私、これでも料理には自信があるんですよ」
 そういうと、雪江は台所に行き、冷蔵庫の中から残り物の野菜や缶詰などを取り出し、準備を始めた。とんとんと包丁をリズミカルに切る音がした。自信を口に出していうほどのことだけあり、プロに近い響きであった。お米は切れて無かったが、一年前に買っておいたスパゲティを手際よくゆでていた。二十分ほどで夕食が出来上がった。スパゲティには特製ソースがかけられてあったが、どのようにして作ったのか分からなかった。残りものの野菜で作った野菜炒め、スープ、デザートのりんごのサラダ、それぞれが抜群に美味しいものであった。どうしてこれだけの材料とこれだけの時間でこれだけの料理が作れるのか不思議であった。これは一つの恐るべき才能であると思った。
「雪江さんは、とても料理が上手ですが、何処で習ったのですか?」
「ええ、母から教えてもらいましたわ。子供の頃からよくお手伝いしていましたから」
「雪江さんの料理作りの才能は、凄いですね。私の母は加工品の料理を食卓に並べるのが得意でしたが、それを家庭の味と勘違いしていました。家庭の味が今、やっと分かりましたよ」
「詩人さんはとても口がお上手ですね。やはりこんなことをいってたくさんの女性を口説くのでしょうね」
「いいえ、私は女性を口説いたことも口説かれたこともありません。これは自信を持っていえることです」
「ほほほほほ・・・・、おもしろい詩人さんですこと。そうですね。詩人さんは誠実そうですものね」
 これが女との楽しい語らいというものであろうか、詩人はこの楽しみを三十歳にして初めて知ることができた。食事の後かたづけをしてから、詩人は自分の今まで描いてきたイラストや本になった挿し絵などを雪江に見せた。しかし本業と自負している詩はついに見せることがなかった。それは普通の女が理解できるものではなく、おかしな男と思われたくなかったからである。
詩人は雪江と語らいながらある事を心配していた。風呂も家にあったが、沸かすことを意図的に忘れた振りをしていた。だがそんなことよりどのようにして寝るべきであるかが問題であった。雪江もそのことを考えている様だった。そして詩人はついに切り出した。
「そろそろ寝ようと思うのですが、雪江さんはこちらの八畳部屋でお休みください。私は隣の六畳部屋で休みます」
「ええ分かりました。でも布団はどうしましょう。あるんですか?」
「ええ、あります。今夜は熱帯夜になりそうなので、雪江さんの掛け布団は毛布一枚でもいいでしょう。パジャマはあるのですか?」
「ええ、私はかまいませんわ。パジャマも持っています。でも詩人さんはどうやってお休みになるのですか?失礼ですが、お布団は二人分あるのですか?」
「はははははは・・・・・・あるに決まってるではありませんか」
 そう言うと詩人はおやすみをいって隣の部屋へ行った。部屋と部屋との間は襖一枚であった。詩人は掛け布団を丸めて眠ることにした。しかしなかなか眠ることができなかった。襖を覗きたいという衝動にかられたが、それだけの度胸はなかった。熱帯夜の夜は長く感じられた。時計を見ると二時頃であった。しかしうつらうつらと少しは眠れたようであった。ふと眼を覚ますと四時過ぎであった。外はまだ暗かった。詩人は思いついたように立ち上がり、着替え、そっと襖を少し開け、雪江を見た。まだよく寝ている様子であった。詩人はそっと部屋を抜け出し、外へ出た。そしてバイクにまたがると例の沼に向かった。

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