鯉と詩人その16
                                        

 詩人の家から沼まではバイクで二十分ほどで着いた。バイクを降りると急いで松林の中を駆けていった。沼に出ると詩人は池に石を投げた。
「鯉さん、早く起きろ。大事件だ!」
 鯉は眠っていたが、その物音に眼を覚まし、水面に顔を出した。
「何事だ?朝っぱらから騒々しいではないか・・・。詩人か、珍しいではないか。こんな早くから。いつもなら釣りに適さない午後から来るのに」
「そんな悠長なことを言ってられないんですよ。女が、いや女性が私の部屋に泊まっているんですよ」
「おお!詩人にも女ができたのか。それはめでたいことだ」
「何がめでたいことですか。それがとても綺麗な女性なんですよ。今まであんな綺麗な女性と口を聞いたことはありませんでした。何故なんでしょう。何故あんな女性が私の部屋に泊まっているのでしょう」
「そんなことは詩人しか分からないことではないか。最初から話してみなさい」
 そう言われて詩人は今日の出来事を鯉に詳しく話した。鯉はそれを聞いて、雪江が雪女の娘であると直感した。だが雪女との約束通り、そのことは秘密にしておいた。
「所で、これからどうするつもりだ?詩人くん」
「さてどうなるのでしょう。恐らく雪江さんは私に感謝して、一人旅を続けるのでしょう」 
「そうかな。ひょっとするとひょっとするかも知れない」
「ひょっとはしないでしょう」
「何事もなく、いつもの日常に戻るでしょう」
「詩人はそれを望んでいるのかな?」
「ええ、望んでいると思いますよ。多分」
「そうかな。わしにはそうは思えんがね。まあ、彼女の出方次第だろうが・・・・」
「そうですね。雪江さんの出方次第ですね」
「相手の出方に合わせてみたらどうだ。それが一番良いように思う」
「・・・・そうしましょう」
「そろそろ彼女が起きる時刻ではないのか。早く戻った方が良いだろう」
「ええ、そうします。ではでは」
「あっ、だが少し待て・・・・」
 鯉は詩人を呼び止めたが、詩人は急いで松林を駆けていってしまった。鯉は、雪江の正体を詩人に教えないことが本当に良いことであったかどうか迷っていた。今の詩人は、いつもの詩人ではない。しかし、これも詩人の運命なのだろうと思うことにした。
 さて、松林を出ると、詩人は道ばたに止めてあったバイクに乗って家に向かった。辺りは大分明るくなっていた。家に着き、玄関のドアを開けると、台所で物音がしていた。
「あっ、お帰りなさい。朝早くから何処へ行っていたんですか。そろそろ朝食が出来上がりますよ」
そういうと、雪江はテーブルに食事を並べた。食パンとスクランブルエッグと昨日の残りのおかずの簡単な食事であったが、心のこもった美味しい食事であった。
「こんな美味しい朝食は久しぶりですよ」
「詩人さんに喜んでいただけて嬉しいですわ」
 そう言ううとコーヒーを入れてくれた。いつものインスタントであったが、雪江の入れたものはやはり旨かった。
「ところで、雪江さんは今日何処へ行くんですか?」
「ええ、昨日行けなかった寺院へ見学に行きたいと思います」
「その寺院ならよく知っていますので、ご案内しましょう」
「えっ!お忙しいでしょうに・・・」
「いいえ、私の仕事はいつでもできるものですから、それに昼間はあまりしないんですよ。夜型ですね」
「ではお願いしますわ」
 二人は食事を終えると家を出た。その時、隣の噂好きの奥さんに見られてしまった。まずいとは思ったが、軽く挨拶をして、寺院へ向かった。奥さんは私たちの後ろ姿をじっと見ていた。
 寺院までは歩いて三十分ほどの距離であった。彼方に入り口の大きな赤門が見えてきた。本山の周りにはたくさんの寺が並び、境内には金堂、三重の塔、六角堂、水門、堀、大ケヤキ、鐘突堂などがあった。詩人は知っている限りの説明をした。雪江はメモ帳を取り出し書き込んでいた。ガイドと観光客の関係であった。詩人にはそれが気楽であった。
「雪江さんは熱心ですね」
「ええ、お寺だけでなく古いものは好きですわ。それにしてもよく知っているんですね」
「子供の頃、学校の社会科で先生に調べさせられたことがありました。強制されるのはあまり好きではないんですが、その頃の知識はよく生きていますね」
「とても勉強ができたんでしょうね」
「そんなことはありませんよ。おお、そうだ。おみくじでも引いてみますか?」
「ええ、そうしましょう」
 詩人は今までおみくじなど引いたことはなかった。こんなものは愚かな女がやるものであると思っていたからである。今日の詩人はやはり鯉がいうようにいつもの詩人ではなかった。少し愚かになっていたのである。雪江の好みそうなことをやろうとしていたのである。
「おお、私は大吉ですよ。出会いよし。金運ありですよ。ははははは・・・・・・」
「まあ、良かったですこと」
「雪江さんはどうですか?」
「私も大吉です。詩人さんと同じで良かったわ。私のは出会いを大切にって書かれてありますわ」
「そうですか、それは良かったですね」
 詩人はそう言いながら、これはいつもの自分ではないことに気が付いた。
(こんなことをいうような私ではない!)
 心の中で詩人は、そう呟いた。だが、雪江の笑顔を見ていると自分のペースで話を進めることができなかった。自分のペースに合わせられる女は、この世にほとんど居ないであろうと考えていたからである。
 また、歩きながら、詩人はあることに気がついた。それは行き交う人の中に、我々を振り返ったり、じっと見ている人がいたことである。最初は何故なのか分からなかったが、雪江を見ていることに気がついた。たしかに私でも街ですれ違ったら振り返るかも知れない。それほどの美人であった。
(こんないい女を連れている私は、どんな風に思われているのだろう)
 そんなことを考えると、ついニヤニヤしてしまうのだった。美人に生まれるということはこんなにも優越感を味わえることなのであろうか。そのお裾分けを雪江からいただいている様な気がした。
「詩人さん、どうしたんですか?そんなにニヤニヤなさって・・・・・」
「いえ、何もありません。ただ何となく嬉しいだけです」
「へんな詩人さん。うふふ・・・・・」
 雪江は、そう笑いながら小首を傾げた。長い髪が少し広がり夏の日差しにきらりと輝いた。一つ一つの仕草にも可愛らしさが漂っていた。恐らく無意識のうちに行動しているのだろう。これは美しい女の天性なんだろうと思った。
「詩人さん、お食事にでもしませんか?」
「ええ、そうしましょう。あっ、あそこに蕎麦屋さんがありますから、蕎麦にしましょう」
「私も蕎麦は好きですから、いいですね」
 二人は蕎麦屋に入った。蕎麦を食べながらいろんなことを考えた。雪江は私に合わせてくれている。これはこの女の優しさなんだろうか、それとも魔性の女の情けなんだろうかと考えたりしたが、やはり雪江には魔性は感じられなかった。心から優しい女であるように感じられた。しかし不思議である。これだけの器量があれば、いくらでも男は靡くであろうに、よく私とつき合ってくれているものだと・・・・。
 そんなことを考えているうちに食事は終わった。
「ここは私が払いましょう」
「いいえ、割り勘にしましょう。詩人さんにはいろいろとご迷惑をおかけしていますもの」
 そういって割り勘にしてくれた。ここは私が払っても決して損ではない。飲み屋へ行って、女一人付けば最低一万円は取られてしまう・・・・。などと下らないことを考えていた。
 そうこうしているうちに、詩人の家に戻ることにした。雪江は戻る必要はなかったが、ここで別れましょうとはいわなかったからである。詩人からも決してそれを切り出すことはなかった。家に戻ると、近くの奥さんたちが立ち話をしていた。我々の姿を見ると、急いでいなくなってしまった。どんな噂をしていたのか見当がついていたが、特に気にもしなかった。近所つき合いは日頃からほとんどなかったし、普段から少し変人で通っていたからである。
 家に入ると居間、すなわち八畳部屋に座った。何故かいつもより綺麗になっていた。そして雪江が入れてくれたコーヒーを飲んだ。
「雪江さん、今日は疲れましたか」
「ええ、少し。今日は本当にありがとうございました。とてもためになりましたわ」
「いえいえ、とても楽しい一日でした。女性とデートしたことなど今までなかったですから」
「あら、詩人さんなら女性におもてになるんじゃないですか?」
「雪江さんはおもしろいことをいいますね。詩を作る連中なんて、女性にもてることはないんです。もてるような連中は本当の詩人ではないんです。女性を口説くために詩を作る奴らは似非詩人ですよ。私の昔の仲間にいましたが、みんな結局やめてしまいましたよ」
「そうですか。うふふふ・・・・・」
「おかしいですか?」
「いいえ、おかしくはないんですけれど、詩人さんて純粋な方なんですね」
「人間は純粋ではありませんが、文学は純粋でありたいと思っています」
 詩人は雪江と会話しながら、次の展開を考えていた。雪江にはここに居てほしいが、どのようにして自然な形で話を持っていくべきか・・・・。そしてついに切り出した。
「雪江さん、この町にはまだいろいろと見る価値のある旧所名跡がいくつかありますから、明日、見学してみませんか?」
「えっ!・・・・ええ、私はそれでよろしいですけれど、詩人さんはお忙しくはないんですか?」
「ええ、全くかまわないのです。夜、ちょっと挿し絵を描けばいいんですから。気楽な仕事ですよ。はははははは・・・・・・・」
詩人は、心の底から笑っていた。どうしてこんなにまで、上手く事が運ぶのが不思議なくらいであった。夢のようにも感じられた。
詩人の家には小さなお風呂があった。昨日は入りそびれてしまったが、今日は入らない訳にはいかなかった。詩人一人なら真夏でも平気で二三日風呂に入らないことはあったが、雪江、否、女性がいるのである。そんな不潔なことはできないのである。
「雪江さん、お風呂を立てますから、先に入ってください。・・・・・・もちろん、何もおかしなことしはませんよ」
「詩人さんがおかしなことをするとは思っていませんけれど、詩人さんからどうぞ」
「いえいえ、雪江さんからどうぞ。早く早く」
 そういわれて雪江は旅行鞄から洗面道具を出し、お風呂に入った。詩人は居間で煙草を吸っていた。三十分ほどして、雪江が上がってきた。ジャージに着替えていた。
 次に詩人が入った。風呂場は綺麗に片づけられてあった。また甘いいい匂いがしていた。雪江の匂いである。とても嬉しくなった。
「詩人さん、ここに詩人さんの下着を置いておきますよ。ついでに汚れ物も洗っておきますからね」
 という雪江の声がした。そういえば脱衣場の洗濯機の中に汚れ物を大量に投げ込んであった。洗濯は洗濯機の中が満杯になっらやることにしていたが、たしか満杯になっていたようである。今まで母以外、女性に洗濯してもらうことはなかった。洗濯までしてもらう以上、もはや恥ずかしいなどと感じる必要もないと思った。洗濯機の音がしてきた。その音を意識したことはなかったが、心地よい響きに今の詩人には感じられた。
 風呂から上がると雪江は食事の準備をしていた。
「もうすぐ食事ができますので、待っていてくださいね」
 雪江は台所でトントンと包丁を使いながら、後ろ姿でいった。後ろ姿の雪江もなかなか良かった。
(この女性が自分の奥さんならなぁ)
 と、詩人はしみじみ思っていた。食事が終わってから詩人は隣の六畳部屋で仕事をするつもりでいた。
「雪江さん、私は隣の部屋で挿し絵の仕事をしますので、ここでテレビでも観てゆっくり過ごしてください」
「分かりました。私は洗濯と掃除をしておきます」
 もう詩人は遠慮する気はなかった。格好をつける気もなかった。二日間一緒に過ごしたのである。雪江にも私という人物とこの環境は理解できたはずである。それでも嫌がっている様子もないので、気が楽になってきた。
「ええ、じゃあお願いします」
と、あっさりと頼み、詩人は隣へ行って仕事を始めた。雪江が洗濯と清掃をしている音がしばらく聞こえていたが、静かになった。
「詩人さん、コーヒーと簡単な夜食を作っておきました。」
 そういうと襖が開き、雪江がそれらをおぼんでそっと差し出した。
「それでは私は、先に休みます。おやすみなさい」
 といって雪江は襖を閉めた。
 詩人はその後もしばらく仕事をしていた。やっと出版社から頼まれた挿し絵が十枚仕上がった。時計を見ると一時近くになっていた。詩人はそっと襖を開けた。雪江が静かに眠っていた。寝顔を眺めながら愛しさがさらに湧いてきた。
 寝ていることを確かめた後、詩人は雪江を起こさないように静かに外へ出て、バイクに乗り、例の沼へ向かった。

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