鯉と詩人その17
詩人は沼に着くと、大きな声で鯉を呼んだ。すると鯉はすぐに水面に顔を出した。詩人が来る様な予感を鯉は持っていた。
「どうだった。詩人よ。上手くいっているのか?」
「不思議なくらい上手くいっていますよ。雪江とはたった二日間のつき合いなのですが、もう二三ヶ月もつき合っている様な気がします」
「雪江は詩人が嫌う、一般大衆の女ではないのか?」
「一般大衆の女ではありません。雪江は雪江です。固有名詞を持つ特別な存在です」
「ものは言い様だな。惚れてしまったな」
「うーん、惚れた腫れただの、そういう言い方は好きではありませんね。私の愛が存在していると言うことです。しかし雪江の私への愛が存在しているかどうかはまだよく分かりませんが・・・・」
「二日も部屋にいるんだから、詩人に好意がないということもないだろう」
「しかし、何故、雪江は一人旅をしていたんでしょうね?」
「直接、雪江に訊いてみればよかろう」
「うーん、怖いですね」
「何が怖いのだ?」
「雪江ほどの綺麗な女です。男がいなかったとは思えません。ひょっとして男と別れてきたんじゃないんでしょうか。傷心の旅なのかも知れません。或いは、やくざな男に追われているのかも知れません。その可能性も十分ありますね。私の家を隠れ家にしているのかも知れません」
「それは詩人が勝手に想像していることではないか。まだ詩人は雪江がどういう過去を持っているのかよく知らないようだが、直接訊いてみるとよい」
「それは私からは訊けませんよ。雪江が話してくれるんなら別ですが・・・・」
「そうだな・・・・。その方が良いのかも知れん。詩人は雪江がどのような過去を持っていたとしても、どのような女だとしてもつき合うつもりか?」
「つき合うと言っても、明日には去ってしまう可能性もあります。私はこれからもずっと私の部屋にいてほしいのですが・・・・・」
「恐らく、ずっといるであろう。詩人が嫌がらないかぎりは・・・・・・」
「何故そんな予言ができるのです?」
「いや、何となくだよ。何となく・・・・わしの長年の感だな。それはそうとして詩人は童貞か?」
「くだらない質問をするんですね。そんなことより雪江は処女でしょうか?」
「処女だと思う。童貞と処女との恋か・・・・・悪くはないな」
鯉さんは勝手な想像をしている様ですが、私はその想像が好きではありません。今夜はこれで失礼します。ではでは」
そう言うと詩人は去っていった。そして鯉が彼を見送り沼に潜ろうとした時、女が淵に現れ、鯉を呼び止めた。
「鯉さん、待って下さい」
「お前は誰だ?」
「雪江です。母がお世話になりました」
「母?おお!雪女の娘か。たしかに母親に似てすごい美人だな。これなら骨抜きの詩人となっても不思議なかろう」
「詩人さんを骨抜きにするつもりはありませんわ。あの方はとても純粋な方ですもの」
「ではどうするつもりなのだ?」
「・・・・それは詩人さんの出方次第ですわ。詩人さんの好きなようにすれば良いと思っています」
「だが、詩人はお前に惚れて切っている。お前の好きなようになるであろう」
「雪女は男を幸せにする妖怪です。人間たちは誤解していますわ。正体さえバレなければ男に従順なんです。私たち雪女のおかげで幸せを味わった男は、過去にたくさんおりますのよ」
「そうか、男を幸せにする妖怪か。たしかに雪女を恨む男たちは少なかったように思う。騙されたいと思う男たちも多いのかも知れない」
「だが・・・・雪江さんは詩人を好きなのかい?」
「母よりいろいろ詩人さんのことは聞いておりました。しかし、嫌なら詩人さんの前には現れませんわ。遠くで詩人さんのことを観察しておりました。詩人さんがよくここに来ることも知っておりました」
「そうか、見ておったのか。わしはちっとも気づかなかったぞ」
「私は妖怪ですもの。気づかれることはありませんわ。鯉さんと詩人さんとの会話を聞きながら、詩人さんがとても魅力的な方に思えましたわ」
「人間の女では考えられんことだ。あの偏見に満ちて無精な詩人が魅力的とは・・・・・・」
「そんなことありませんわ。人間の女は教養がないだけのことですわ。少なくとも詩人さんに関係のあった女は・・・・・・」
「雪江さんも変わった妖怪、いや女性だな。これなら詩人と上手くやっていけるかも知れん。やはり似た者同士ということは大切なことだな」
「私が詩人さんに似ているとは決して思いませんけれど、ああいう方を理解はできますわ」
「詩人も幸せ者だな・・・・・・いや・・・」
「私が幸せにしてあげますよ。うふふふ・・・・・・」
雪江の微笑みは、魅力的であったが、どこか寂しくも見えた。月の光がそう見せたのかも知れない。
「鯉さん、一つお願いがあります。母も言っていましたが、私の事は絶対、秘密にして下さいね。決して詩人さんを取って食おうなんて思っていませんから」
「ああ、秘密にしておこう。その方が詩人も幸せだろう。だが、最後まで騙し通してほしいと思う」
「ええ、かしこまりました。そうしたいと思います。さて、詩人さんより早く家に帰らなければなりませんので、これで失礼致します」
そう言うと雪江は帰ろうとした。
「待ちなさい。最後に訊くが、本当に雪江さんは雪女なのか?」
それを聞いて、雪江はふっと近くの松の葉に息を吹きかけた。すると松の葉がみるみるうちに凍ってしまった。鯉はそれを見て、沼へ静かに消えた。
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