鯉と詩人その18
詩人が家に着くと、雪江は居間で静かに眠っていた。時計を見ると三時近くになっていた。雪江を起こさないようにして六畳部屋に入り、眠った。
次の日、起きて時計を見たら九時近くになっていた。いつもなら七過ぎには起きるのであるが、やはり昨日のことで疲れていたようである。襖を開けると、食事が用意されていた。雪江はいなかった。
(あっ!出ていったのか・・・・・・)
だが、風呂場の方で物音がした。行ってみると雪江が風呂掃除をしていた。
「雪江さん、そんなことしなくてもいいのに・・・・・」
「えっ、ええ、でも掃除は好きなんですよ」
そう言えば風呂場も一ヶ月ほど洗ってはいなかった。洗ったとしてもシャワーでさらさら流す程度であった。きれい好きな雪江には気になって仕方なかったのであろう。
「もう少しで終わりますから、詩人さん、早くご飯を食べてくださいね」
「雪江さんは食べたんですか?」
「いいえ、まだですけれど・・・・・」
「だったら待っています」
そう言って、詩人はテレビを見ながらしばらく待っていた。
雪江が風呂掃除を終わると、一緒に朝食を食べた。食事は詩人にとってただの空腹を満たす時間であったが、雪江との食事は彼女の笑顔を味わう時間となっていた。
「詩人さん、昨日はどんな仕事をしていたのですか?」
「出版社に送る挿し絵を描いていたんですよ。徹夜して何とか十枚仕上がりましたけどね」
「それをいつ送るのですか?」
「今日、いや明日送るつもりです」
「それなら私が届けてあげましょう。詩人さんは私に構わずもっとお仕事なさったらどうですか」
「でも、今日は雪江さんにこの町の名所を案内するつもりです」
「そんなことなら、明日でもいいですわ。どこの出版社ですか?」
「隣町ですが・・・・・」
「では、挿し絵をください」
そう言うと、雪江は、やや強引に挿し絵の入った封筒を持って出かけて行った。
詩人は雪江の前では煙草を吸わなかったが、六畳部屋に入り、ゆっくりと二日振りに煙草を吸った。くわえ煙草で寝転びながら、いろんなことを考えた。
(雪江は明日も確実にここにいてくれる。ゆっくりといろんな名所旧跡を見学すればさらに次の日まで伸ばすことができるだろう。だが、待てよ。雪江は果たして帰ってくるであろうか・・・。いやいや、大丈夫、旅行鞄が置いてあるではないか・・・・・)
そんなことを考えているうちに、部屋の隅に置かれてある雪江の旅行鞄が気になってきた。女性の鞄を覗くことは詩人のプライドが許さなかった。だが、ふと気がついた。鞄のチャックが少し開いていたのである。
(開いているのであるから、見てもよい・・・・。そんはことはない。開いていようが、閉まっていようが、よくないことである・・・・・。だが、自然に開いているのである。自然の開放を見ることは、悪と断定できるであろうか?いや、断定は無理であろう。いや、待て待て、これでは詭弁である。だが、人間の本能に従うことは、人間にとっては自然である。教育思想家ルターも言っていた。「自然に帰れ」と・・・・。よって、覗くのではなく見ることは自然である)
などと煙草の煙の中でしばらく考え、「覗くのではなく見る」と言う結論に達したのである。理屈を付けなければ動けぬ詩人であった。今の詩人はノミのような小さな存在であった。
詩人は、雪江の鞄の少し開いている部分から中を見た。覗いたのではなく見たのである。すると本らしきものが見えた。その本の表紙を見ようとしたが、なかなか見ることができなかった。それで少し、ほんの少し、チャックを開いた。表紙には「金子みすゞ」詩集と書かれてあった。金子みすゞは詩人とは傾向の違う詩人であり、その詩は多くの若者に感動を与えていた。また写真で見るかぎり気品の漂う女性であった。詩人はそのみすゞの容姿は嫌いではなかったが、その詩は否定的に捉えていた。みすゞは二十六歳で夭折した詩人であり、最も有名なものとして、「大漁」の詩がある。
大漁
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。
この詩はみすゞの澄んだ優しさが漂っていると言われ、多くの人々に感動を与え、一部の教科書にも載っている作品である。だが、詩人はこの優しさに偽善があると考えていた。いわしのとむらいを想う気持ちが優しいなどと言われているが、食う方も食われる方も必死なのである。とむらいなどという感覚は生活の厳しさを知らないお嬢さんの感覚である。また、いわしは食われる一方ではないのである。いわしは海の小さな生き物を食っているのである。何百万何千万という命を。いわしに食われた小さな生き物のとむらいはどうなっているのであろう。みすゞよ、それを忘れてはいけない、と言いたくなるのである。
だが、雪江はみすゞの詩集を持っている。と言うことは、みすゞの詩に感銘を受けているということである。
詩人は困ってしまった。みすゞの詩に感銘を受ける者が詩人の詩を認める筈がないからである。あまりにも違いすぎるのである。詩人の詩は、今まで多少の困惑という驚きを人に与えたとしても感動を与えることはなかった。雪江には自分の詩を見せない方が良いという結論を得ることができた。
お昼を過ぎても雪江は帰って来なかった。詩人は心配になり、列車時刻表を見た。今度着く列車の時刻を確認すると、駅に迎えに行くことにした。だが、改札口で待つような恥ずかしいことはできないので、駅の出口で待つことにした。
列車が着き、次々に改札口から人が出てきた。しかしなかなか雪江は現れなかった。そうか次の列車か、などと思いながらその場を去ろうとすると雪江が後ろから背中を叩いた。
「届けて来ましたよ。詩人さん」
雪江はとてもにこやかな顔をして、両手で胸に事務用の封筒を押さえていた。
「詩人さん、私、編集者の方に詩人さんの奥さんですかって間違えられましたわ。・・・いいえ、アシスタントですと答えておきましたけれど、少し不思議な顔をしていました」
「そりゃそうでしょう。私にアシスタントがいるように見える筈ないですよ。それも雪江さんのように美しい人が・・・・」
「あっ、そうそう。一つ仕事を頼まれてきましたわ。童話の挿し絵を描いてほしいそうです。これが渡された資料ですけれど・・・・」
そう言うと雪江は封筒を手渡した。
「えっ、童話の挿し絵ですか。それは嬉しいなあ。ひさしぶりの大仕事ですよ」
「詩人さん、早速がんばらなくちゃいけませんね。あっ、私、これでも大学では日本画を学んだんですよ。詩人さんの仕事のお手伝いくらいできるかも知れません。私を本当にアシスタントに雇ってくださいな」
そう言って雪江はいつもの微笑みをみせた。長い髪が風に靡き、きらきらと輝いていた。
「えっ、やや、やといます。雇います。雪江さんなら大歓迎ですよ」
即座に答えた。雪江の腕がどの程度のものであるか全く知らなかったが、それでも構わないと思った。しかしアシスタントを雇うほどの収入がある筈もないのであるが・・・・・」
「では、宜しくお願いします。詩人先生」
「その先生は止めましょう。詩人さんにしましょう。それから給料はどれくらいにしましょうか?」
「えっ、払えるんですか・・・いや・・・失礼しました。詩人さんには頑張ってもらわないと私の給料も出ないでしょうからね。・・・・・まあ、そんなこと考えないで、しっかり頑張ってください」
そんなこと考えないでとは、不思議な女性だと思ったが、それ以上深く考えなかった。否、考えることを避けたと言った方が相応しいかも知れない。嬉しくて嬉しくて、詩人は仕方なかったのである。これが幸せというものなんだろうと詩人はしみじみ思った。
さて、雪江が同居するとなると、寝る場所なども考えなければならなかった。家に帰り、昼飯を食べながら、そのことを雪江と話し合った。
雪江は、八畳部屋を、私は隣の六畳部屋を使用することになった。また、風呂は雪江が最初に入り、詩人は後に決めた。仕事部屋は今まで通り六畳部屋ですることとなり、アシスタントの仕事は慣れるまで詩人の仕事の雑用とすることにした。また炊事洗濯はアシスタントの仕事の延長として行うことになった。だが、煙草は雪江に遠慮して仕事部屋だけで吸うことに決めた。
二人で生活するとなると、布団などの身の回り品は必要であるので、一通り話し合ってから買いに行くこととなった。詩人は世間では貧乏人と思われていたが、親の遺産がいくらかあったので、収入が少なくても日々の生活に困るということはなかった。だから呑気に適当に仕事ができたのである。売れない詩もその延長上にあった。
雪江は、アシスタントであり、同居人であった。しかし周囲には当然のことながらそうは見えなかった。詩人は女と同棲しているという噂がその日のうちに広まった。
夜になって、仕事をすることとなった。
「さて、雪江さん。日本画をやっていたと言っていましたが、挿し絵とは少し技巧が違います。雪江さんはどんな絵を描くんですか?」
「そうですね。では詩人さんをスケッチしてみましょう」
そう言うとスケッチブックに詩人の姿を丁寧に描いた。
「どれ、見ましょう」
詩人は驚いてしまった。対象を正確に写し取る技術は詩人よりも上手いように思えた。基礎基本をしっかりと身に付けている。しかし絵に個性は感じられなかった。これはアシスタントにとっては良いのである。個性は詩人が持っているのであるから。個性が二つあっては仕事が進まないのである。
その夜から詩人は一生懸命仕事をすることを決心した。雪江の給料を支払うためである。しかし雪江の提案により夜更かしはしないようにということで、十二時には止めることになった。全て雪江に従った。雪江は自分のことを大切に考えてくれていたからである。
さて、十二時となり、今日の仕事は終えることにした。雪江はお休みなさいと言って襖を閉めた。一人になり、詩人は今日一日を振り返った。
(どうしてこんなに上手く事が進むのであろう。雪江は幸運の女神である。また良いことに絵の心得もあり、詩にも興味を持っている。話もよく合う。雪江が自分に合わせてくれているのかも知れない。出版社からの仕事も雪江が行ったから貰えたのではないのか。雪江の色気に編集長が惑わされたのかも知れないと・・・・・。よいこと続きではあったが、詩人は大切なことに気づいた。それはこの二日間、詩を作っていないことである。詩人は毎日、詩を作ることを日課としていた。どんなに短くてもノートに書きしたためていたのである。作らないと煙草を吸わない以上にいらいらするのである。そのいらいらがないことも不思議に感じていた)
そんなことを考えているうちに、うとうと眠りについた。
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