鯉と詩人その20
沼に着くと、詩人は釣り糸を垂れ、鯉が出てくるのを待った。大声で呼べは出てくる関係にはなっていたが、それは無粋である。釣りの餌は鯉への挨拶でもあった。針はいつも付けなかった。始めて暫くすると、鯉が顔を出した。
「どうだった。詩人よ」
「ええ、上手くいっています。しかし雪江は実家に帰ってしまいました。五六日して戻るとは言っていましたが・・・・・・」
「なら戻るだろう。心配する必要もないさ。雪江は嘘を付くような女ではない」
「どうしてそこまで分かるんですか。雪江には直接会ったことはないのに・・・・」
「何となくだよ。何となく・・・・」
「でも私は心配です」
「心配したって仕方なかろう。ゆっくりと待つんだな。・・・所で、詩人の正体を雪江に教えたのか?」
「正体とは、何のことです?」
「それはだな、詩人はシュール詩人であり、イラストの仕事は適当にやっているということだよ」
「そんなことはありませんよ。イラストの仕事もしっかりやってますよ。現に雪江をアシスタントに雇うことだってできましたよ」
「そうか、それは凄い。しかし給料を払えるのか?」
「それは余計な心配というものです。まあ、雪江もそれほど期待していませんから。出世払いで何とかなりますよ」
「だろうな。期待しているくらいなら、アシスタントにはならんだろう」
「でも詩が作れません。雪江といる間は一つも作れませんでした」
「それは詩人が現実的になったからであろう。現実が差し迫れば、シュールなんて呑気なことを言ってられんだろう。仕事の方はどうだ?」
「ええ、上手くいっています。雪江が仕事を取って来ますから。でも現実的になるとやはり詩はできないもんでしょうか」
「なら現実的な詩ならどうだ。今ならできるんじゃないか。」
「どうでしょう。そう言えば、雪江は童話を作れと言っていましたが、童話は筋道が通り、有る程度幸せの現実感がないと子供の心を引きつけられませんね」
「ならそんな童話を作ったらどうだ。詩を書き、童話の挿し絵を描くくらいなら、できんこともないだろう」
「詩の才能を金銭に変えようとは思いませんが、作らないと雪江に何と思われるか分かりませんから、一つ書いてみようと思います」
「では頑張るんだな。雪江のために」
人のために頑張るという思想を詩人はほとんど持ち合わせていなかったが、雪江が喜ぶことは自分のためにもなることだと思った。
「ではこれで失礼します」
詩人は自分の家に帰り、早速童話作りを始めた。しかし初めてのことであり、なかなかアイデアが浮かばなかった。それで過去の自分の詩からヒントを貰おうと思い、古い詩のノートをパラパラとめくり読みした。
六色の虹とか、親不孝の雷、クリスマスケーキの家、大黒サンタ、亀に勝ったウサギ、赤道を走る男、川を上るクジラなど、いろんな童話の種が見つかった。それらから「六色の虹」を種として取り出し、童話を作ることにした。一端方向が決まれば書くのは早かった。夜の一時頃には出来てしまった。詩人の初めての第三者を意識した作品であった。そしてそのままごろんと寝てしまった。
次の日は、出版社から頼まれた仕事を一日中没頭して取り組んだ。だがその日はついに雪江から電話は無かった。
(電話のないような田舎でもないだろうし・・・無事に着いたという連絡くらいよこせばいいのに・・・・・)
などとぶつぶつ言いながら夕食のインスタントラーメンを食べた。雪江に会う前の独りの時は全く感じたことのなかった侘びしさがふつふつと湧いてきた。
次の日も連絡は無かった。詩人はとても心配になってきた。そしてその翌朝、居ても立ってもいられなくなり、詩人は雪江に会いに行くことに決めた。雪江から聞いていた住所のメモを持ち、新潟行きの特急列車に乗り込んだ。
新潟までは二時間ほどだった。賀茂という町に降り、それからバスで八谷村に向かった。最初は駅で五六人の人々が乗ったが、次々降りて、最後は一人となった。一時間ほどして目的地に着いたが、降りた場所はとても寂しい村であった。
通りに面して何件かの家が立ち並んでいたが、道路には昼間なのに人の姿は見えなかった。バスはここが終点らしく引き返して行った。まず、人を捜すことにした。少し歩いて行くと畑に老人が働いていた。
「あの、お尋ねしますが、岩原地区という所はどこでしょうか?八谷村の外れにあると聞いているんですが・・・・・」
「えっ、岩原地区だって。それはこの山道をずっと真っ直ぐ行くとあるけれど、今では人はほとんど住んでおらんはずだよ。所でお主は誰じゃ。この辺では見たことがないのう」
「はい、よそ者です。ですが怪しい者ではありません。岩原地区に住んでいる中井さんの家に用があって、これから行くつもりです」
「えっ!?中井さんちか」
老人は驚いた様子で詩人をじっと見つめた。
「たしかあの家はねえ、・・・・・」
そう言うと老人はその後の言葉を濁した。何故なのか詳しく訊こうとすると、突然夕立が降り出した。老人は急いでその場を去ってしまった。詩人は近くの木陰で雨宿りしたが、すぐに止んでしまった。
ここまで来た以上、岩原地区に行くべきだと思い、山道をとぼとぼ歩いて行った。まだ昼近くであったが、暗いブナ林がずっと続いていた。鞄から駅で買っておいたパンを取り出し、食べながら一時間ほど歩くと集落らしきものが見えてきた。
だが、ほとんどが荒れ果てた廃屋だった。田んぼや畑は荒れ地となっていた。本当に誰もいないようだった。詩人はメモの住所の番地を見ながら中井家を探した。そしてついに集落の外れにその家を見つけ出した。
詩人は、玄関に中井と書かれた表札があるのを発見した。中に入ると、ガラスは割れ、廊下は所々板がはがれていた。タンスなどの家財道具はあったが、みんなボロボロだった。襖や障子にも穴が開いていた。本当にここが雪江の家なのだろうかと思った。その証拠を探すためにタンスや引き出しなどを調べた。だが何も証拠となるべきものは無かった。ふと、部屋の壁を見ると、父親らしき人物の描かれた子供の絵が貼られてあった。ひょっとしてと思い、それを剥がして裏を見た。するとゆきえと平仮名で書かれた文字が見つかった。
(やはり、ここが雪江の家なんだ!)
詩人は雪江の手かがりを見つけて、何となくほっとした。詩人はその絵を丸めるとバックの中に入れた。とにかく雪江が以前、ここに住んでいたことだけは確かめられた。しかし既にいないようだった。でも何故、ここを住所として詩人に教えたのか分からなかった。
(やはり、帰って来ないつもりなのであろうか)
そんな不安が詩人の脳裏をよぎった。
玄関を出て周囲を見渡すと、崖の上に神社らしき建物が見えた。詩人は何か手かがりが掴めるかも知れないと思い、そこへ続く坂道を上って行った。頂上にはやはり神社があったが、侘びしい雰囲気が漂っていた。神社の鳥居には「岩原神社」と書かれてあった。神社の脇に社務所らしき建物があった。それほど荒れ果てた感じはなく人が住んでいような気配があった。
「ごめん下さい。ごめん下さい」
詩人が大きな声で二度ばかり言うと奥から老人が現れた。
「誰じゃね?」
「私は詩人と申す者です。この下の中井さんの家に用があって遠くからやって来ました。みなさん住んでいないようなので、それで伺いに参りました」
「わしはここの神主じゃが、中井さんに何の用があるんじゃ?」
「はい、中井さんの家に雪江という女性がいたと思いますが、彼女に会いに来ました」
「雪江はおらんな」
「えっ、どうしたんですか?」
「お主は何も知らない様だな」
「はい、何も知りません。教えてください。お願いします」
「玄関では何じゃから、まあ中へ入れ」
「ありがとうございます」
詩人は居間に通された。神主はお茶を出してくれた。神主以外誰もいない様子だった。
「ここに人間が来るのは久しぶりじゃのう」
「えっ!?でもここで神主さんは生活しているじゃありませんか。一人では大変でしょう」
「まあ、そうじゃな。ほほほほほ・・・・・・・」
老人が一人でこんな山奥で生活するのは大変であろうし、誰か世話してくれる者がいなければ無理であろうと思った。だが雪江のこととは関係が無いと思い、あえて詮索はしなかった。
「所で雪江のことですが・・・・・」
「ああ、そうじやったのう。だが雪江とお主とはどんな関係なのじゃ?」
「私の・・・ええと、婚約者みたいな者です」
アシスタントとはさすがに言えなかった。アシスタントを探しにこんな山奥に来る筈はないし、それでは話が不自然であろうと思ったからである。
「ではどこから話そうかのう」
老人は中井家にまつわる話を詳しくしてくれた。
中井家は、父親と母親、それに雪江の三人家族であり、父親が三年前のある日、記憶喪失になってしまい、全てのことを忘れてしまったこと。そして母親と雪江はその日に行方不明になってしまったことなどを話してくれた。
「その日に何かあったんでしょうか?」
「多分な、しかし誰も何があったか分からんよ」
「父親はその後どうなったのですか?」
「いろいろとあってのう・・・・。今でも町の病院に入院しておる筈だよ」
「だが、ある噂があった・・・・。お主は雪江と関係があるようだから、知っておいても良いだろうて」
「その噂とは何ですか?」
「母親が魔物であったというのじゃ。雪女という者もおった」
「そんなことがあるんですか。ただの噂でしょう」
「そうじゃ、ただの噂じゃ。しかしこのことは誰にも言ってはならんぞ。誰にもな。雪江と関係があるからお主に教えたんじゃぞ。いいか、忘れるでない」
神主から強く口止めをされたが、その意味がまだよく分からなかった。
「では、雪江はどうなんです。母親が雪女なら、雪江もそうですか?」
「いや、それは分からん。雪女の娘が全て雪女になるとは決まっておらんからのう」
不思議な話ではあったが、老人の作り話ではないかとも思った。
「雪江はその後、ここに戻って来てはいないのでしょうね」
「そうじゃな、見たことはない」
いろいろと詳しくこの村のことなどを訊いた後、詩人は帰ることにした。神主に礼を言って、玄関を出ようとした時、神主が言った。
「よいな。雪江のことは人に言ってはならぬ。雪江に会ったとしても、そのことを雪江に言ってはならぬぞ。絶対に」
「はい、分かりました。決して言いません」
詩人は山道を戻り、村の停留所に着いた。最終バスが来るまでには一時間ほどあったが、時々村人が何人か通り過ぎた。詩人をいぶかしそうに眺めていた。やがてバスがやって来た。ここから乗り込んだのは詩人一人であった。
駅に着くと、詩人は雪江の父親に会おうと思った。町の病院は駅の近くにあった。病院に行く途中でお見舞いの果物を買い、病院の受付で父親のことを訊いた。
「おや、中井さんへのお見舞い客ですか。珍しいですね」
看護婦さんはそう答えた。入院してから一度もお見舞い客は来ていない様であった。一つ不思議なことがあった。
「あの、一つお伺いしますけれど、入院費は誰が払っているのですか?」
「ええ、毎月振り込みがありますのよ。誰だかは分かりませんけど・・・・」
雪江か、それとも母親か、どちらかであろうと思った。
病室は一番上の七階の一人部屋であった。訪れると雪江の父親はベットで静かに休んでいた。雪江に眼の辺りが少し似ていた。詩人は自己紹介をしたが、眼の焦点がややぼやけている様だった。看護婦さんの話では、調子の良い時は少しぐらいの話ができるが、今日みたいな日はだめだとのことであった。昔のことは全く覚えていないとのことだった。
早々に切り上げ、詩人は駅に向かった。既に夕暮れが近づいていたが、列車には間に合った。雪江には会えなかったが、五六日で戻るという雪江の約束を信じることにした。
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