鯉と詩人その23
                                 

 詩人が出版する本の打ち合わせを終えて出版社から帰ってくると、雪江が居間に正座して待っていた。とても怖い顔をしていた。初めて見る顔であった。
「詩人さん、これは何?」
 そう言って、雪江が子供の頃描いた、あの絵を差し出した。詩人はこの絵を雪江に見つからないように、押し入れの奥の箱の一番下に隠しておいたである。
「今日、押し入れがあまりにも汚いから整理しようと思ったの。そしたらこれが出てきたわ。この絵は私の絵よ。どうしてこの絵がここにあるの。説明して!」
 とても厳しい追求であった。雪江とは思えなかった。
 あまりにも追求が厳しいので、詩人はついに本当のことをすべて喋ってしまった。口止めされたことも忘れるくらい厳しい追求であった。
 それを聞き、雪江は下を向いてしくしく泣き始めた。
「ごめんよ。ごめんよ。雪江、雪江の昔のことなど何も気にしていないよ。そんなに泣かないでくれよ」
「いいえ、だめです。貴方は私の秘密を知ってしまったのです。いや、知っているのです。もう貴方と一緒には生活できません」
「それは何故だい?私は気にしてないと言ったろ。雪江のお母さんが雪女なんていうおかしな噂があるってことは聞いたけど、そんなの噂でしかないじゃないか」
「・・・・・・・もしそれが噂でないとしたら・・・・・。もし私もそうであったとしたら・・・・・・」
「おかしなことを言わないでくれよ。・・・・・そんなこと気にしてないよ」
「・・・いいえ、私も雪女です」
 そう言うと雪江の雰囲気ががらりと変わった。突然、部屋の電気も消えてしまった。だが、雪江は青白い光を体全体に発してした。そしてゆっくりと立ち上がった。
「待ってくれ、雪江。行かないでくれ。頼むから。雪女でもいいからここに居てくれ」
「いいえ、ここにはもう居られません。本当は貴方を殺すか、父のように廃人にしなければなりません。それが雪女のしきたりなのです。・・・・でも私にはできません。このまま去ります。しかし私の母はこのことを知ったら、貴方に何をするか分かりません。ここにはいない方がよいでしょう。この家を母は知っています。明日の朝までに必ず逃げてください」
 そう言うと雪江は消えるように部屋からいなくなった。
「雪江!」
 そう叫んで、外に出て雪江を捜したが、すでにどこにもいなかった。詩人は道路に座り込んで泣いた。
(どうしたらいいのだろう?・・・・・そうだ、鯉さんの所に行こう)
 詩人はバイクに乗り、急いで沼に向かった。
沼に着くとすぐに 鯉を大声で呼んだ。鯉は何ごとかと驚き、水面に顔を出した。
「おい、どうしたんだ?そんなに血相を変えて」
 詩人は先ほどの出来事を鯉に詳しく話した。
「どうしたらいいんでしょう?母親が明日にもやって来るそうです。私を殺すかも知れません。雪江に戻って来てほしいのですが、どうしたらいいんでしょう?」
「雪江は戻る気はあるのか?」
「母親が許せば何とかなると思います」
「では、詩人よ!母親と戦うか」
「そんなことできる筈ないじゃありませんか。詩での勝負ならともかく、雪女に勝てる訳ありませんよ。もっといい方法はありませんか?」
「・・・・・・全く手が無い訳でもない」
「えっ!?そんないい方法が本当にあるんですか?」
「母親と取り引きをするのだ」
「取り引きと言っても、その材料は何です?私は何も持っていませんよ」
「今は無いが明日の朝にはできる」
「えっ!?それはどういう事です。もったいぶらないで早く教えてくださいな」
「雪女の秘密を全て公表するぞと言うんだ。雪女は人間世界に何人も潜り込んでいる。また、雪女の発祥の地は、越後の粟ヶ岳という山の中だ。その山の中に岩野神社がある。詩人も前に行ったことがあろう。その神主の娘が最初の雪女なのだ。その女が子供を産み、だんだんと広まっていったのだ。人間がアフリカ大陸から全世界に広まったように・・・。それから、岩原神社のご神体は、大きな桜色の水晶だ。雪女たちはそれを信仰しておる。とても大切にしておる。これらのことを明日までに文章に起こすのだ」
「なるほど、分かりました。それを取り引き材料にするんですね。でも、これは立派な脅しではないでしょうか」
「では、止めるか」
「いいえ、やります。雪江が戻ってくれるなら何でもします。でも、よく知ってるんですね。鯉さんは」
「以前少し話したことがあったろう。わしの生まれ故郷が越後の山古志であると。その近くのお山なんだ。わしと同じ頃に最初の雪女は生まれたんだよ。それでよく知っているのだ」
「なるほど。よく分かりました。頑張って明日までに書き上げます。ではこれで失礼します」
 そう言うと詩人は急いで帰ろうとした。
「待て、詩人よ。コピーはしっかり取っておくんだぞ」
「ええ、心得ていますよ」
 鯉は雪女に対する後ろめたさがあったが、詩人のことが何よりも心配であった。
詩人は帰るとすぐに鯉から聞いた話を、物語風にかつ正確に記録した。そしてコンビニエンスストアに行き、全てコピーした。それから原稿を封筒に入れ、編集長への手紙を添えて、ポストに入れた。コピーしたものを家に持って帰り、母親が来るのをじっと待った。朝方、詩人は外の異変に気づいた。時計は七時だというのに太陽が出ないのである。母親が来たと思った。詩人は家の外に出た。母親の雪女が吹雪きを従え立っていた。
「おぬしは、雪江をだましたね。お前を殺すことにするよ」
「待ってください。騙してはいません。雪女でもいいですから、雪江とこれからも一緒にいたいのです」
「だめだね。雪女の亭主がその正体を知った場合は、亭主を殺すか廃人にするしかないのよ。諦めるんだね」
「いいえ、嫌です。ここに雪女の秘密が全て書かれた原稿のコピーがあります。これを世間に公表します。もし、私に何かあればそうなります。どうしますか。雪女さん。岩原神社のご神体も人間に盗まれてしまうかも知れませんよ」
 そう言うと詩人は雪女に原稿のコピーを渡した。
 雪女はそれをしばらく読んで、こう言った。
「・・・・・雪女を脅そうというのかい。いい度胸じゃないかい」
「いいえ、脅しではありません。言い忘れましたが、これは実行されつつあります。明日には公表されるでしょう。明後日には雪女の一族はおしまいです」
「では、お前はどうしたいというんだね?」
「ええ、雪江を戻してほしいのです」
「本人が嫌だといったら」
「それはだめです。雪江が嫌だと言えば、雪女はおしまいです。私は本気ですよ。シュール詩人を舐めてもらっては困りますな」
「・・・・・いいだろう。雪江を戻そう。お前は私の昔の亭主と違って、なかなかの悪党だね。ただし、雪江をお前の妻とすることは許さないよ。秘密を知った亭主は殺さなければならないが、そうでなければ・・・・・・・」
「・・・・分かりました。雪江は、これからも私のアシスタントです。約束は守りましょう」
 それを聞くと雪女は、吹雪と共に空の彼方へ消えていった。すると周囲はだんだんと明るくなり、朝のいつもの景色となった。ふと気が付くと雪江がそこに立っていた。
「詩人さんは、とても怖い人なんですね・・・・・」
「そうです。貴方を手に入れるためなら何でもしますよ」
「でも、詩人さん、今日から私は、本当のアシスタントです。そのように接したいと思います」
「・・・・・嫌だと言う訳にもいかないんでしょう」
「ええ、約束は守ってもらいます。私を恋人だとは思ってはいけません。アシスタントです。いいですね」
「ええ、結構です。しかし私から離れることはできませんよ。いいですね。雪江さん」
「ええ、離れません」
「契約成立です。では朝食を食べましょう」
 そう言って雪江を家に入れた。詩人はどうせ一緒に生活しているのだから、なし崩し的に前のような関係に持っていけると考えていた。
 朝食はいつものように雪江が作ってくれた。味はいつもの味であったが、無言の食事であった。
「あっ、そうだ。出版社へ行く用があったんだ。雪江さん、今から出かけてきます」
そう言って、詩人はバイクで出かけた。あの原稿を何とかするためにである。
出版社へ行き、編集長に会った。原稿はまだ届いていなかった。
「編集長さん、実は昨日、編集長さん宛に物語の原稿を送りました。でもまだ書き直さなければならない点がいくつかありますので、返してほしいのです。こちらに今日あたり届くと思いますので、待たせてください」
「ええ、いいですよ・・・・しかし、待つこともないでしょう。私が一時的に預かっておきますよ。明日取りに来たらどうですか」
「そうですか。ではお願いします」
 そう言って、詩人は出版社を後にした。家に帰る前に詩人は、鯉に昨日の成果を伝えるために沼に寄った。
「鯉さん、実に上手くいきましたよ。これも鯉さんのお陰です。本当にありがとうございました」
「そうか、上手く行ったか。それは良かったな。だが、あの母親には油断してはいけない。雪江に対してもだ。雪江は母親と違って優しい女だが、雪女だ。決して隙を見せてはいけないぞ」
「ええ、分かりました。そうします。ですが何もできませんよ。彼女らより人間の方が賢い存在なのです」
 そう言って詩人は笑った。鯉はこれは危ないと感じた。
「いいか、決して油断するな」
 そう鯉は強く念を押した。
「ではこれで失礼します。また何かあったら連絡します。では」
 詩人が去り、鯉が沼に潜ろうとした時、ふいに鯉を呼ぶ声がした。・・・・・雪江だった。
「やはり、貴方だったのですね。詩人さんに悪知恵を与えたのは・・・・・」
「雪江か、怒っているのだろうな」
「・・・・・いいえ、怒ってはいませんわ。私も詩人さんの所へ戻りたいと思っていましたから・・・・」
「そうか。では詩人を宜しく頼む。人間の女には相手にされぬ哀れな男でな。雪江にも愛想をつかされたら、立つ瀬がないであろう」
「でも、詩人さんをそそのかすようなことは止めてもらいます。詩人さんの面倒は私が見ますから」
「ああ、いいとも。今回のようなことは決してしないよ」
 それを聞くと雪江はふっといなくなった。
 詩人が家に着くと、雪江がすでに待っていた。雪江と詩人はテーブルに向かい合って座った。そして雪江は詩人が編集長に送った原稿用紙をテーブルの上に置いた。
「詩人さん、これは編集長から先ほど私がいただいて来ました。これを母が見つけると貴方に何をするか分かりません。こんなことは二度としないでください」
「はい、分かりました。二度としません。雪江がここにいる限り」
そう言って詩人は雪江に深々と頭を下げた。
「ええ、ここにいます。ずっと詩人さんのアシスタントとして」
「ああ、良かった」
 そう言って詩人がテーブルの上の雪江の白くて細い右手を触ろうとすると、雪江は左手で詩人の手を軽く叩いた。
「だめです。私はアシスタントです。恋人ではありません。むやみに触ってはいけません」
「えっ、えっ、えっ一」
詩人は大きく驚いた。
「でも、アシスタントは先生の、つまり先生とは私のことですが、その面倒を見ることも仕事の一つですよ」
「ええ、今まで通り、詩人さんの面倒はすべて私が見ます。でも恋人のような関係はだめです」
「では、友達のような関係ですか?」
「まあ、そんな関係かも知れません」
 詩人は少しガックリしたが、雪江が今まで通りここにいてくれるのなら、それで良いと思うことにした。
「さあ、詩人さん、仕事をしましょう。たくさん溜まっていますよ。しっかりがんばってくださいね」
 そう言うと、いつもの雪江に戻り、にっこり微笑んだ。

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