鯉と詩人 その4
また二週間ほどして、詩人は沼へやってきた。沼のほとりに着くとすぐ釣りの準備をし、釣り糸を垂れ始めた。ミミズの餌をしっかりとつけて。するといつものように鯉が水面に現れた。
「詩人よ、久しぶりだな。待っておったぞ。今日の餌のミミズはとてもうまくて大きかったのう」
「おや、嬉しいことをいうんですね。私を待っていてくれましたか?」
「沼の中では、わしの話相手はもうすでにいないんでね。わしの仲間も百年前に死んでしまったよ」
「それはそれはお気の毒に。さて鯉さん、何百年もこの沼に住んでいたのなら、いろんな出来事があったんでしょうね」
「そうだな。いろんなことがあったな。この沼に心中しようとした男女も五十年ほど前におったよ。詩人よ、おぬしは女と死のうと思うことなんかなかったであろうな?」
「ないですね。女には惚れぬたちですので」
「惚れられることもなったのではないのか?」
「ええ、まあそうですね。あまりないですね」
「あまりないとは一度はあったということか?」
「さあ? しかし人間関係において絶対にないということはあり得ませんね。私の知らない所で女性に惚れられていたかも知れませんしね」
「楽天主義者の詩人らしい言い方だな」
「えっ!? どうして私が楽天主義者だと言えるんですか?」
「そうだな、おぬしの顔がそういう顔をしてるのだな。わしは人間を見る目はあるつもりだ」
「そうですか。ではそういうことにしておきましょう。あえて否定しません。所で、さきほど心中しようとした男女がいたといわれましたが、どんな人達だったんですか?」
「おぬしは、そういう週刊誌が喜びそうな話は好きなのか?」
「いいえ、参考にお聞きしたいと思っただけです。話したくなければいいですよ。しかし話したいんじゃないですか?ただの心中ではなかったんでしょう」
「そうだな。おもしろいといっては不謹慎だが、相手の男がおもしろい男だったな。たしか、名前を太宰とか言っておったな」
「えっ!? あの太宰治ですか? それはそれは、是非お聞きしたいですね」
「そいつが太宰治であるかはどうかは分からないが、沼のほとりに女とやって来てな。しばらく話をした後、薬を取り出し、女と飲みおった。それから沼に入ったぞ。この沼は急に深くなっているんだが、その男は足が底につかなくなったら、急に、たすけてくれ、と叫んで騒ぎ出したぞ。女の方はすでに観念したようで、静かに沼の深くに沈んでいったよ。しかし男の方は実に往生際が悪かったよ。それで、何故そんなに往生際が悪いのか知りたくて、ついそいつに話しかけたのだ」
鯉『おい、お前、死ぬ気はないのか?』
男『おお!ここは天国ですか、それとも地獄ですか?』
鯉『いや、ここはまだ沼の中だ。お前は天国へ行けると思っているのか』
男『ここがまだ沼なら助けてください。薬のために躰がよく動かないです。このままでは溺れ死んでしまいます。お願いします』
鯉『女は沼の底へ沈んでしまったよ。お前は最初から死ぬ気はなかったのか?』
男『いいえ、ついさっきまでは死ぬ気でした。しかし気がいっぺんに変わってしまいました。死にたくはありません。死がこんなに恐ろしいものであるとは思いもよりませんでした』
鯉『女は眠るように沼に沈んでいるよ。女にすまないと思わないのか?』
男『とてもすまないと思っています。しかし私は死ぬ訳にはいかないのです』
鯉『それは何故だ?』
男『それは私が小説家だからです。自分でいうのも何ですが私の小説はとても魅力的でファンが多いのです。ここで死んだら多くの人達が悲しみます。また文学上の大きな損失にもなります。ですからこんな所で死ぬ訳にはいかないのです』
鯉『だったら何故心中しようと思ったんだ。死にゆく女が可哀想ではないか』
男『女は私の小説で永遠に生きることができます。しかし私が死んだら女も永遠に死んでしまいます。ですから女のためにも死んではいけないのです』
鯉『自分勝手な言い分ではないか』
男『私は体験を小説にする文人です。この体験をきっと小説にします。あなたのことも有名にしますので、助けてください』
鯉『わしは有名にならんでもよい。だが助けてやってもよい。お前のような男は生きる価値はないが、生かしてみる価値はありそうに思う』
「まあ、そういうことで助けることにしたのだ。そいつはわしに何度も礼を言っておったが、本当に助けてよかったかどうか今でも分からん」
「鯉さん、その方が本当に太宰治なら助けた価値はあったかも知れません。多くの若者に多くの感動を与えましたから」
「ほう、その感動とはどんなものだ?」
「そうですね。青年の生き方への影響ですね。太宰の小説を読んで自分の生き方に疑問を持ち人生観を変えた若者も多かったですね。しかし麻疹のようなものだという批評家も結構いますけれどね」
「麻疹の文人ということか」
「ええ、そうですが、希にこじらせると重病になりますけれどね」
「太宰という男は、文学史に残ったのであろう。所で詩人よ、お前はどうだ?」
「私は太宰ほど悪人ではありませんから無理ですよ」
「ほう、文学で成功する者は悪人でなければならないのか?」
「絶対条件ではないですけれど、特に小説には何かしら毒がないと読んでつまらないものです。毒はその小説家の人間性に潜んでいる悪からにじみ出てくるものです。私にはその悪がないのでシュール詩人なんです。小説家にはなれませんよ」
そう言うと詩人は寂しく笑った。鯉はそれを見て頷き、一緒に笑った。
「鯉さん、今日はとても楽しかったです」
「わしも楽しかったな。久しぶりに笑うことができたよ」
「詩人よ、今度は彼女でも連れてくるがよい。わしがお似合いかどうか見てあげよう」
「私の彼女はこの沼に今も沈んでいる骨だけになっている女ですよ」
そう言って詩人は釣り竿を持ち、帽子を被り去っていった。鯉は詩人の後ろ姿を見送ると沼の中へ潜っていった。
つづく
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