鯉と詩人    その6
                                      

 しばらくして詩人はまた沼へやって来た。ついものように釣りを始めたが、今日は少し落ち込んでいるようだった。するといつものように鯉が水面に顔を出し、
「どうした詩人。元気がないではないか?」
「ええ、分かりますか。今日はやや憂鬱なんです」
「どうしたんだ?」
「この頃、詩が何も浮かばないんです」
「誰だってスランプぐらいはあるであろう」
「全く浮かばないんです。一行もです」
「詩人の詩はシュールであったな。シュールならば適当に言葉をつなげればいいではないのか。たとえば、ピラニア、おまんじゅう、お正月というような関連の無い言葉を適当に選択し、『ピラニアがまんじゅうを食いながらお正月を楽しんでいる。』というような調子で作ってはどうだ」
「なかなかうまいものですね。鯉さんは私よりシュールの才能がありそうですよ」
 と言うと力なく詩人は笑った。
「詩人よ、落ち込むでない。スランプに陥った時は、別のことに熱中したり取り組んだりすればよいであろう」
「鯉さんは悩み事相談センターのカウンセラーみたいですね。別に皮肉ではありませんよ」
「思うに、シュールという詩にはその詩が必然的に持つ限界があるのではないだろうか。理性のある人間なら嫌気が差してくるように思う。詩人よ、自分の足で大地を歩いてはどうだ。きっと明日が見つかるであろう」
「明日ですか。でも一体どちらへ向かって歩けばいいのでしょう?」
「それはだな、いにしえの人々に尋ねるべきであろう」
「いにしえの?」
「そうだ。要するに古典に学べということだ」
「どんな方を鯉さんは推奨しますか?」
「そうだな。詩人の性格ならニーチェならどうだ。「ツァラトゥストラはかく語りき」という彼の名著がある。それを読めばきっと元気が出るであろう」
「でもどうして元気が出ると分かるんですか」
「それはその名著が詩人のような人間に向かって書かれているのだ。とにかく読んでみなさい」
「鯉さんは本当に何でも知っているんですね。どうしてこの沼に住んでいるのにいろんなことを知っているんですか?」
「実はわしはここにずっと住んでいた訳ではないのだ。今から八十年ほど前、ついうっかり中学生の竿にかかり捕まってしまってな。食べられそうになってしまったことがある。その時、浦島太郎の亀のようにある方に助けられ、その方の家の池に飼われたことがあるのだ。その方は教師であったが、とても教養の高い方であったよ。その方からいろんなことを毎日教えてもらったのだ。君は私の教え子よりも理解がよいとほめられたものだ。」
「名前をたしか金之助とか言っておったな」
「えっ!金之助?それは夏目漱石のことではないですか。そうですか。夏目漱石ですか。この沼に来て驚くことばかりでしたので、もう慣れてしまいましたね。私も漱石先生の書生にでもなりたかったですね」
「漱石か誰かは知らないが、お客の多い家であったな。そこには一匹の猫が飼われておったよ。なかなか生意気な猫でな。わしを食おうとしたこともあったよ」
「おっ!あの有名な名無しの猫ですね」
「先生はいつも猫、猫と呼んでおったな。名前はなかったように思う。その猫も瓶に落ちて死んでしまったよ。わしを食おうとしたこともあったが、死ねば可哀想なもんだな」
「また先生はわしのことも鯉、鯉と呼んでおったよ。わしにも名前はついに付けてくれなかったがね。餌は毎日しっかりと忘れず食べさせてくれたよ。餌をくれながらいろんな話を聞かせてもらったな。文学界のことや人間関係の煩わしさ、人生哲学、思想なんかをね。わしには話が難しくてよく分からんことも多かったが、今よく考えてみると自分自身に話しかけるていたのかも知れない」
そういうと鯉は先生を懐かしむような顔をした。
「でも、どうしてここに戻ってきたんですか?」
「それはだな。先生が病気になってしまい、わしをここにおいてもしかたないと思ったんだろう。弟子の一人にわしを元の沼に戻すよう頼んで死んでしまったよ。しかし、あれほどの教養人は未だかつて会ったことがない」
「ふーん、そうですか」
「そうそう、今思い出したが、その弟子は龍之介とか何とか言っていたよ。頬のこけて神経質な顔をしておったな。その男はわしを沼に放す時、こんなことを尋ねた」

龍之介『鯉さん、沼の底にはカッパの世界があるか?』
鯉『ええ、カッパも想像の動物と思われているが、本当にいるよ。カツパの友達も何匹かいる』
龍之介『そのカッパのことを詳しく教えてほしい。私も先生のような小説が書いてみたい。だが、想像だけでは迫力がない。本当の世界を知りたいのだ。頼む、鯉殿』
鯉『そこまで言うのなら話して聞かせましょう』

「土下座して何度も頼むので、その男にカッパの世界のことを詳しく教えてやったよ」
「それであの小説ができたんですか。カッパという小説は彼の代表作の一つになっていますよ。鯉さんがいなければあの小説もなかったということですね」
「まあ、その辺のことはよく分からないが、わしが役に立ったならそれは良かった。ところでその龍之介という男は最後どうなったのだ?」
「ええ、自殺してしまいましたよ。自己矛盾をかかえていたと言われていますが、実際の原因はよく分かりません」
「わしは分かるような気がする。彼は文人としての想像力が乏しかったのだ。過去の知識を土台にして小説を書く態度は長続きしない。よって作家として行き詰まってしまったのだ。自己矛盾なんかではない。三島と同じく行き詰まりの自殺だな」
「えっ、三島由紀夫も知っているんですか?」
「その男の話は今度にしよう。今日わしは疲れた。よって眠ることにするよ」
 そう言うと鯉はゆるやかに沼の底に潜っていった。詩人はしばらくその場に佇んでいたが、思い出ついたことがある様子で、釣り竿を持ち、帽子を被り帰っていった。

                                              

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