鯉と詩人  その7 
                                       

 また一週間ほどして詩人は沼へやって来た。そしていつものように釣り糸を垂れた。すでに釣り糸を垂れることが詩人のやって来た合図になっていた。いつものように鯉は水面に顔を出した。
「鯉さん、お元気ですか?」
「詩人から先に挨拶をするというのは珍しいではないか。少しは社会性というものを身につけたようだな」
「ははははは、そうかも知れませんね」
「今日は機嫌がいいようだな。スランプからも脱出できたようだな」
「ええ、何とか脱出できました。これも鯉さんのおかげです」
「詩人には、おかげです、という言葉は似合わないであろう」
「まあ、そう言わないで下さい」
「ところで、以前から聞きたいと思っていたが、以前、六畳部屋が待っています、などといっていたが、六畳部屋は詩人の恋人なのか?」
「たしかにそんなことを言っていたこともありましたね。私はこの近くのアパートで独りで住んでいます。六畳部屋は私の寝室であり、仕事部屋であり、空想する部屋であり、瞑想する部屋であり、独り言を言う部屋であり、文学を読む部屋であり、寒さをしのぐ部屋であり、食事する部屋です」
「要するに生活の部屋ということだな」
「単純に言えばそういうことですが、生活という言葉では決して表現しきれないものがあります。私をつつむ子宮のような存在です。そこにいれば安心できます。詩作にふければ一週間くらい部屋から出ないこともあります」
「詩人は行動しないのか。行動しない詩人は世界が広がないであろう。狭い感覚の詩しかできないであろう」
「そうかも知れません。ですからここにやって来るんですよ」
そういうと楽しげに笑った。
「詩人の今の笑い声には、人間らしさが感じられたぞ。その人間らしさを詩に表現してはどうだ」
「人間らしさですか・・・・・」
「そうだ人間らしさだ。思うに詩人にはシュールは元々似合わないのではあるまいか。どうも人間くさい詩人のような気がする。人間くさい詩人はそれを詩に表現したらどうだ。もしかしたら感動の欠片ぐらいは見られるかも知れない」
「鯉さんの意見を前頭葉の片隅に置いておくことにしましょう。ところで鯉さん、一つ聞きたいことがあります。以前、カッパの友達がいると言っていましたが、どんなカッパだったんですか。芥川ではありませんが、興味があります」
「そうだな。それならば聞かせてあげよう。もしかしたら詩人の詩の参考になるかも知れないからな」
「今から二百年くらい前の話だが、この沼に一匹のカッパがふらりとやってきたのだ」

鯉『お前はどこから来たのだ?』
カッパ『おれは流れ者のカッパよ。生まれは遠野という小さな村だ』
鯉『どうしてここに来たのだ?』
カッパ『ここは周りに畑があり、餌はたくさんあり、隠れる所もいくつかある。それに村人も純朴そうだし、この沼も不気味な雰囲気があって、俺には棲みやすそうだからな。しばらくやっかいになるぞ』
鯉『わしはかまわん。しかし村人に迷惑をかけんでほしい。わしにも迷惑になるからな』
カッパ『もちろん、分かっているとも。決して迷惑はかけんよ。相棒』

「そんな調子のいいことを最初は言っておったが、だんだんと本性が出てきな。わしの知らないところでいろんな悪さをしておった」
「どんなことをしたんですか?」
「畑の作物を盗んだり、村人の家に盗みに入ったり、鶏を食ったり、馬を脅かしたり、神社の賽銭箱から金を盗んだり、娘や童をからかったり、いろんなことをやっておった。わしには村人から貰ったといって食い物を分け与えてくれたりもしたがな。気のいい面もあったな。そのうち、村人から恨まれるようになり、ついに居場所も見つかってな。最後には捕まってしまったよ。村人にぼこぼこにされ、寺の木に縛りつけられたそうだが、夜中に逃げてどこかへ行ってしまったそうな。それ以来ここには戻って来んかったよ」
「どこへ行ったんでしょうね」
「カッパという奴は、人間が純朴であるかぎり、滅びる生き物ではないので、死んだりはしなかったろうさ。しかし今の世の中では生きてはいけないだろうね。もうとっくに滅びしてしまったかも知れないな」
「カッパの世界というものはどういうものなんでしょうね?」
「そうだな、カッパは人間世界と似ているとのことだ。そいつにも妻や子もいたそうだか、愛想をつかされてしまい、それで人間世界にやってきたそうだ。だが人間世界もやっぱり気楽ではなかったようだ」
「そうですね。この世界はどこへ行っても同じなのかも知れませんね。人間のいう天国という所はないのかも知れませんね」
「そうだ、詩人よ。天国などはない。この世の全てが現実なのだ。夢もまた現実が作りだした虚構でしかない。詩人よ、夢の中に逃げてもしかたないではないか。過去の真実の詩人に目を向けたらどうだ」
「おお、実に力強い説諭ですね。しかし私の虚構の詩は私の命でもあるのです。これを捨てたら私自身を捨てることになります」
「だったら捨てればよいさ。捨てて再生すればよいのだ」
「再生・・・・。」
「そうだ。再生だ」
「何かいい詩ができそうな気がしてきました」
 そう言うと、詩人は帰る準備を始めた。
「詩人よ、急ぐでない。時間は無限に近いくらいあるぞ」
「ええ、そうですが、瞬間はそれほどあるものではありません」
 そう言って詩人はそそくさと帰っていった。 鯉は大きく一跳ねして沼に潜っていった。

                                        つづく

ひとつもどる