鯉と詩人その8
                                       

 詩人はいつものように昼下がりに沼へやって来て、いつものように釣りを始めた。いつものように鯉が水面に顔を出し、
「相変わらず詩人であるか?」
「ええ、いつものように詩人ですよ。実は今日は鯉さんに私の詩を聞いて、批評をしてもらいたいと思っているのですよ」
「ほほう、そういえば今まで詩人の詩を聞いたことがなかったな。よし聞いてあげよう。早く読みなさい」
「私の詩は散文詩が多いので、それにします」
 そう言うと、詩人はノートを取り出し、朗々と読み始めた。

       黒い羽根
                                              詩人

 粽を食べていると、夕焼けの彼方より鳥の鳴き声が聞こえてきた。おお、あれはトウテンクックの鷲ではないか。彼は私の背中を掴むと南の空へ連れ去った。一時間か一日経ったのか分からなかったが、寒さで凍え死んでいると、突然私を振り落とした。地球に衝突すると二三度バウンドして、三途の川の中へ落ちた。深さは腰の丈ほどしかなかった。向こうより賽の河原の小径をやって来る少年がいた。近くの石に腰かけ、私に気づかない様子で対岸の地獄の真っ赤な夕日を眺めていた。その少年は昔の着物を着ており、「五年三組正岡」と書かれた名札が縫いつけられてあった。何やら俳句か短歌を作っている様子であった。「富士山に蝉の幾千隠れ啼く」この蝉は如何に、と私が問うと、すかさず「ツクツクボーシツクツクボーシバカリナリ」と答えた。小学生にしては生意気な力量だと感心していると、突然黒い破片が降り注ぎ、みるみるうちに夜となった。何処となく馬の蹄の音が近づき、そちらの方を眺めると、鎧を着て槍を持った武士があばら骨の透けて見える馬に乗ってやって来た。武士は私を槍ですくい上げ、黄泉街道をひたすら駆けて行った。しばらくするときり立った山が見えてきた。その頂に槍ごと投げつけると、武士は何処かへ去って行った。叩きつけられた場所にはスミレが咲き誇っていたが、悉く踏みつぶされてしまった。手や顔にスミレの汁が付き、紫の詩人になってしまった。ふと気が付くと目の前に聖者が立っていた。円周率は「4」である。そう呟くと笑いながら何処となく去って行った。再び気が付くと背広を着て、ネクタイを締め、鞄を持ち、三面鏡の前で立っていた。周囲は人影の無い真夏の海岸であった。海岸に沿って歩いて行くと、雪で覆われた越後平野が広がってきた。どんよりと曇った空から黒い液がポタポタ落ちてきた。すると烏となり、辺り一面に啼き出した。次の瞬間、雪の中よりニョキニョキと無数の手がわき出して、烏の足を捕まえ、雪の中へ潜っていった。辺りには黒い羽根が無数に散らばっていた。

 読み終わると、詩人はノートを閉じて、鯉の方を見て尋ねた。
「どうです。私の詩は?」
 鯉はしばらく考えていたが、ついに口を開いた。
「シュールだのう。たしかに・・・・・・。意味が分からん」
「ええ、それでいいのです。意味を廃していますので・・・・・」
「理解不能であるが、想像力は認めよう。しかしごく一部の人間しか認めないであろう。それも同じ詩を作る連中だけであろう。文学としての形態を成してないのではないか」
「そんなことはありません。立派な文学です。想像力こそが重要なのです。これがなければ芸術とはいえません。世の中の多くは感動ばかりを論じて想像力を軽く考える傾向にあります。特に日本の芸術はその傾向が強いのです。ですから私のような詩は日本では受けないのです。これがヨーロッパ、特にフランスあたりですと、高い評価を受けるんですが・・・・」
「詩人は日本人ではないか。日本人に分かる詩は作れないのか?」
「作れる体質ではないのです」
「断定しているが、作ったことがないのであろう。試しに作ってみたらどうだ」
「無理ですね」
「感動には経験が必要であるが、それが詩人には欠けているのではないのか。部屋で本ばかり読んでいないで、外へ飛び出したらどうだ。そうすればもっと明るい想像ができるようになるのではないのか。ひょっとして、詩人は外へ出るのを怖がっているのではないのか」
「うーん、そんなことはないと思いますよ」
「詩人は旅をしたことがあるのか?」
「うーん、鯉のぼりの背中に乗って、エジプトに行ったことはありますよ」
「そんな想像の旅ではない。旅だよ、旅。鞄一つ持ってのあてのない本当の旅だよ」
「うーん、金が無いですね。真の詩人は、昔から貧乏人と決まってますから」
「貧乏だから旅ができないということではない。下町の路地からでも旅は始まるのである。旅は思い立てばできるものだよ」
「そんなことを言いますが、鯉さんは旅をしたことがあるのですか?」
「私には何百年もの間、生きてきた経験がある。詩人とは比較にならないであろう。私のことはどうでもいいことである。今は詩人のことを話しているのである。ごまかしてはいけない」
「うーん、では今から旅に出かけることにしましょう」
「この沼から、自分の家までか?」
「うーん、今日の鯉さんは鋭いですね。その鋭さに免じて、今日は帰ることにしましょう」
 そう言うと、詩人は急いで帰ろうとした。
「詩人よ、ノートを忘れるでない」
「おお、私の命を忘れる所でした。それでは、ほんとにさようなら」
 そう言って詩人は帰っていった。帰る姿を見ながら、鯉は詩人が猫背であることに気付いた。

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