鯉と詩人その9
二週間ほどして詩人はまた沼へやって来た。そしていつものように釣りを始めた。しかし鯉はなかなか水面に顔を出さなかった。詩人は心配になって、
「おーい、鯉さん。どうしたんですか?鯉さん、どうしたんですか?」
何度も何度も呼んでいた。しばらくすると鯉が顔を出した。しかし元気はなかった。
「どうしたんですか。鯉さん。びっくりしたではないですか」
「実は病気になってしまったようだ。体におかしなカビがついてしまったようだ」
「それは大変なことです。魚用の薬を買ってきましょう。私の知り合いの釣り竿屋にたしか塗り薬がありました。ちょっと待っていてください」
そう言うと、詩人は急いで買いにいった。しばらくすると詩人は戻ってきた。詩人は沼に入ると鯉の体のカビの付いた部分に薬を塗り始めた。鯉は気持ちよさそうに大人しくしていた。
「これで 大丈夫でしょう。現代の薬はとても効き目がありますから、きっと良くなりますよ。それからミミズの餌もたくさん買ってきました。これでも食べて元気になってください」
「ありがとう。詩人よ。体が良くなっていくような気がする」
「鯉さんにもしものことがあったら、過去の文人たちに申し訳ないように思います」
「わしがここまで長生きしてこれたのは、多くの人間たちのお陰のように思う。わしを食おうとした人間は不思議なことにいなかったよ」
「それはそうでしょう。人間の言葉を話せる鯉なんて誰も食べようなんて思いませんよ。 恐らく美味しいとは思えませんね。でも何故鯉さんだけが喋れる鯉なんでしょう。世の中にはたくさんの鯉がいますが・・・・・」
「そうだな。これには訳がある。しかしこれを詩人といえども人に言う訳にはいかないのだ」
「そうですね。とても大きな訳があるのでしょう。私も敢えて聞きません。所でこの沼には鯉さんしかいないのですか?」
「いいや、いろんな生き物が棲んでおるぞ」
「どんな生き物がいるんですか?」
「そうだな。へらブナの家族やナマズの親分、沼の底でくねくねダンスを踊っているどしょう、顔ほど根性の悪くないガマガエル、源氏の末裔だといばっておる源五郎、スケート靴をいつも履いて滑っているアメンボ、素性のはっきりしない片手だけのアメリカザリガニ、それに自殺した女の骸骨などがおるよ。鯉はわし一匹だけだよ」
「みんな鯉さんのように会話できるんですか?」
「同じ種類同士は簡単な会話をしているようだが、種類が違えば無理なようだな。人間の言葉を理解できる生き物はわししかおらんよ」
「普段、鯉さんは何をしているのですか?」
「そうじゃな。沼の底で瞑想に耽ったり、昔の思い出にひたったり、餌を探したり、眠ったりしているな」
「ふうん、質素な生活といえるのでしょうね」
「そうでもあるまい。わしにとっての天敵がここにはいないので、気楽な生活であろう。生き物にとっては敵に食われることが一番恐ろしいことなのだ。食うか食われるかだ。ここが理性のある人間社会とは決定的に異なる点だな」
「でも人間のように自殺する生き物はいないでしょう?」
「そうだな、自殺する行為は下等な生き物の遺伝子には組み込まれていないようだ。その意味で自殺とは人間だけに許された高級な行為なのだ」
「高級な行為?」
「そうだ。高級なのだ。わしも理性は持っているが自殺はできない。またしようとも思わない。なぜなら遺伝子的にできない仕組みのようだ。何故だか分からん。詩人は自殺しようと思ったことがあるのだろう」
「そうですね。あります」
「それはどんな時だ?まさか詩で行き詰まった時というんじゃないだろうな?」
「それはないですね。落ち込んでしまいますが、その落ち込みの中でまた詩が湧き出てきますからね。落ち込みが激しい時ほど良い詩ができるように思います。しかし誰も認めてくれませんがね。でも何の理由もなく死にたくなることがあります。説明がつきません。賑やかな雰囲気というものは好みません。そんな環境にあるととても落ち込んで、死を意識してしまうことがあります」
「 それでは詩人は孤独が好きなのか?」
「ええ、孤独と釣りは大好きですね。一ヶ月間部屋に閉じこもっていたことも過去にはありましたよ。人に会いたいとも思いませんでした。部屋に閉じこもっているのが楽しかったですね」
「楽しかった、とは過去形ではないか」
「ええ、鯉さんと出会うまではね。鯉さんは人間ではありませんから。それに大好きな釣りで知り合いになれましたし、またここも詩の世界の一部のような気がします」
「そうだな。わしは誰に対しても話しかけるということはない。この世界を理解できそうな者にしか話しかけないよ」
「では、私は理解できる者だと・・・・」
「わしは突然話しかけたのではない。詩人が沼に来た時からじっと観察しておったのだ。普通の釣り人といった感じがしなかったな。釣りをしているようでしていないようで、近くを見ているようで遠くを見ているようで、何を考えているかよく分からんかったな。それでつい話しかけてしまったのだ」
「えっ、そうだったんですか。鯉さんに話しかけられた時、私は何故か不思議な気がしませんでした。こんな世界も現実にはあるんだろうなと思っていましたので」
「詩人は現実と夢との境がないのか?」
「いいえ、しっかり持っています。ですからまだこの世に生存していられるんですよ。まあ、近所では少し変わり者と思われていますがね。この頃は変わり者がとても増えたので、私程度の変わり者はあまり目立たなくなってきましたね。街には様子の変な人がたくさんいますよ。牛の鼻輪をしたり、日本人なのに真っ黒な顔をしていたり、貧しくもないのに穴だらけの服を着ていたり、頭に文字を書いたりしている人間などが普通に歩いていますよ。また、それを見ても誰もおかしいと言いませんね」
「時代は変わったようだな。だがそれを若者の世界では流行というのではないのか?」
「そうですね。そんな風に言いますね」
「詩人の容姿は普通のふけた若者に見えるが、作る詩は新しいのだろう。新しい若者の文化に対する理解はないのか?」
「詩はシュールでも外見を七面鳥には見せませんよ。内面から飾るべきだと思っています」
「うーん、そういう分別のある考え方からは、新しい発見が生まれないのではないのか」
「分別と鯉さんは、言うのですか。分別と・・・・」
「理性といってもよいが、時にはそれを放棄しても良いかも知れないな。女に好かれんぞ」
「女などどうでもいいんです。鯉さんの病気はだいぶ良くなったようですね」
「そうだな。実に良い薬を塗ってもらったよ。詩人と話していると傷口の痛みもほとんど無くなってきたよ」
「それはそれは良かったですね。それではだいぶ遅くなってきましたので、今日はこれで帰ります」
「今日は本当にありがたかったぞ。詩人のおかげてまだ長生きができそうだ」
そう言って鯉は何度も礼を述べた。
詩人はにっこりとして、帽子をかぶり、竿を持って帰っていった。鯉は最後まで見届けると沼へ潜っていった。あたりは、だいぶ薄暗くなっていた。
ひとつもどる