名句小劇場「扇の句」

太陰暦8月11日(太陽暦9月24日)、芭蕉と北肢(筆者)は松岡の天龍寺までやってきた。「少しだけお送りしましょう」ということであったが、遂にここまでやってきた。とてもありがたかったが、天龍寺で北肢と別れることになった。

芭蕉「北肢殿、本当にありがたかったぞ。これからも蕉門の一人として、句づくりに励んでもらいたいものじゃ」
北肢「いやいや、俳句を学ばせていただき、まことにありがとうございました。お師匠様も体に気をつけて旅をお続けください」
芭蕉「そうじゃ。別れにあたり、北肢殿に一句残そう」
そういうと扇を取り出し、それを広げ、右側に一句したためた。

物書て扇引さく余波(なごり)哉      芭蕉

芭蕉「これは、『別れにあたり、扇にお互いに句をしたため引き裂き、お互いの句を持ち、それを形見としよう』という意味じゃ」
北肢「おお、私のようなものに、一句を、ありがとうございます」
といって涙を流した。
芭蕉「北肢殿、泣いてばかりおらずに、句を扇の左側にしたためなければなりませんぞ」
そういわれ、北肢は筆をとると、一句したためた。

裂かれたる扇を持ちて偲ぶかな      北肢

芭蕉は、自句のように扇を真ん中から引き裂き、自分の句を北肢に、北肢の句を自分の小物入れに納めた。
北肢は天龍寺の門前で芭蕉に別れを告げると、いま来た道を帰っていった。芭蕉は北肢の姿が見えなくなるまで見送った。
芭蕉は遂に一人となってしまった。とても寂しい気持ちになったが、心を新にして旅を続けようと決心した。
さて、天龍寺の住職、智英和尚は、古くからの知り合いであり、江戸での話に花が咲き、その夜は泊めてもらった。次の日、太陰暦8月12日(太陽暦9月25日)に、智英和尚の案内で永平寺に参詣することができた。その後、福井に行き、古くからの知り合いである等才(筆者・実際に奥の細道で旅をしたのは等栽である。)の庵を訪れた。等才はかなりの歳であったが、俳諧論議に話が咲き、二日泊めてもらった。その後、敦賀に向かった。等才は道案内をしたいということで、一緒についてきた。

                                              2008.6.9