良寛様の略歴譜

西暦 年号 年齢 良   寛   様   と   関   係   す   る    事    項
1758 宝暦8 1 出雲崎の名主・山本家橘屋の長男に生まれる。幼名を栄蔵という。父は泰雄(以南)23歳。母はのぶ24歳。
1759 宝暦9 2 父以南、石井神社神職を継ぐ。町年寄敦賀屋、祭礼の件で山本家橘屋を訴える。
1760 宝暦10 3 妹のむら(長女)が生まれる。
1761 宝暦11 4 曾祖父左門良胤没する。享年77歳。
1762 宝暦12 5 弟の泰儀(由之・次男)が生まれる。
1764 明和元 7 大森子陽、三峰館を開く。その塾に入門する。祖父新左衛門没する。父以南、名主役を継ぐ。
1766 明和3 9 子陽、三峰館を閉じ、江戸に遊学する。その後、栄蔵は尼瀬の光照寺の寺子屋で学ぶ。
1767 明和4 10 弟の香(三男)が生まれる。
1769 明和6 12 妹のたか(次女)が生まれる。
1770 明和7 13 弟の宥澄(四男)が生まれる。子陽、三峰館を再開し、三峰館に再入塾する。
1772 安永元 15 栄蔵、元服して文孝と名のる。
1775 安永4 18 三峰館をやめて名主見習役となる。三峰館で合計6年間学ぶ。:結婚をするが、半年ほどで離婚する。妻は歓(よし)と推定される。7月1日、父以南は栄蔵の前で、学友の敦賀屋長兵衛の不始末を叱責する。栄蔵は7月18日に出奔する。しばらく放浪する。
1777 安永6 20 妹みか(三女)が生まれる。子陽は三峰館を閉じて、鶴岡に移住し、塾を開く。
1778 安永7 21 弟の由之が名主見習い役となり、新左衞門と称する。
1779 安永8 22 尼瀬の光照寺にやって来た岡山の玉島円通寺の国仙和尚により得度し、円通寺で修行生活に入る。
1783 天明3 26 母のぶ(或いは、秀子)没する。享年49歳。
1789 天明4 27 7月、国仙和尚衆の行脚に加わり、信州湯の原に宿泊する。善光寺に詣でる。
1785 天明5 28 亡き母の3回忌に帰郷する。5月、紫雲寺村の観音院の夏安居に参加し、その隠居所で宗龍と面会する。
1786 天明6 29 父以南は隠居し、弟由之(25歳)が家督を継ぎ町名主となる。
1789 寛政元 32 由之の子馬之助(長男)が生まれる。8月13日、宗龍が没する。享年73歳。
1790 寛政2 33 国仙から「印可の偈」を受ける。
1791 寛政3 34 3月、師・国仙没する。享年69歳。五月、大森子陽没する。享年54歳。国仙の死後、諸国行脚の旅に出る。
1794 寛政6 37 近藤万丈、土佐で良寛様と会ったとされる。弟宥澄、円明院を継ぐ。
1795 寛政7 38 7月25日、父以南は、京都の桂川で入水自殺する。享年60歳。
1796 寛政8 39 帰郷の途につく。木曽路、善光寺と行き、途中の糸魚川で病気となる。郷本の空庵に仮住まいする。鈴木文台生まれる。
1797 寛政9 40 国上山の五合庵に初めて入る。原田鵲斎らと交わる。
1798 寛政10 41 弟の香、没する。享年32歳。貞心尼生まれる。
1800 寛政12 43 弟宥澄没する。享年31歳。
1801 享和元 44 大村光枝、原田鵲斎、阿部定珍らが五合庵に良寛を訪ねる。歌人光枝と和歌を唱和する。遍澄生まれる。
1802 享和2 45 国上寺前住職義苗隠居して、五合庵に住む。五合庵を出て、寺泊の密蔵院、牧ヶ鼻の観照寺に仮寓する。
1803 享和3 46 国上山の本覚院、野積の西生寺に仮寓する。
1804 文化元 47 三月、善光寺に再び詣でる。馬之助、名主見習役となる。名主由之と名主見習馬之助は、用途不明金がもとで出雲崎町民より水原代官所へ訴えられる。由之、島崎に身を隠す。1月、義苗没する。十月、法兄仙桂和尚没する。
1805 文化2 48 再び五合庵に住む。馬之助、原田正貞と血盟を結ぶ。共に16歳。
1807 文化4 50 中山村の西照坊に仮寓する。万葉集の研究をはじめる。5月1日、法友の三輪左市没する。享年47歳。
1808 文化5 51 法友の有願和尚没する。享年72歳。敦賀屋長兵衛没する。享年60歳。
1809 文化6 52 江戸の儒者亀田鵬斎が越後へやって来て、良寛様と交遊する。歌の唱和あり。多くの逸話を残す。
1810 文化7 53 観照寺に仮寓する。由之の妻やす没する。享年42歳。由之に家財取り上げ所払いの判決が出る。馬之助も名主見習職剥奪で橘家は没落する。解良栄重生まれる。由之の孫、山本泰世生まれる。
1811 文化8 54 良寛自筆詩稿「草堂集貫華(そうどうしゅうかんが)」成る。由之、剃髪し石地に隠居する。馬之助が家督を継ぐ。
1812 文化9 55 良寛自筆歌集「布留散東(ふるさと)」を作る。橘崑崙「北越奇談」を刊行する。良寛様の記事あり。妹たか没する。享年44歳。
1815 文化12 58 写本「良寛禅師詩集」成る。鈴木文台「寄良寛禅師」を詩を作る。文台の講義を聞いて、将来の大成を予見する。
1816 文化13 59 大村光枝没する。享年64歳。鈴木文台兄弟の良寛詩集「草堂集」成る。遍澄(15歳)が良寛様の法弟となる。夏に大関文仲、五合庵を訪れる。冬に五合庵から国上山麓の乙子神社に定住する。
1817 文化14 60 管江真澄「高志栞」成る。この中で良寛様を「手まり上人」として紹介する。解良叔問の要請に応じて「法華経」を書き写し、それを叔問は牧ヶ花の解良家の石地蔵の下に埋める。
1818 文政元 61 大関文仲「良寛禅師伝」成る。
1819 文政2 62 長岡藩主牧野忠精と対面し、長岡へ招請されるも辞退する。阿部定珍と詩歌を唱和する。8月解良叔問没する。享年55歳。
1820 文政3 63 長歌「月の兎」成る。由之、越前より帰国する。良寛様としばしば往来する。
1821 文政4 64 遠藤幸助、「月の兎」の長歌をもらう。由之、寺泊で良寛様とむらに会い、奥羽の旅に出る。4月中頃、良寛様、米沢藩見聞の旅に出る。
1822 文政5 65 維馨尼没する。享年58歳。
1823 文政6 66 馬之助、井之鼻村の名主となる。良寛様、米沢の旅から乙子神社に戻る。新発田の丹羽思亭「良寛伝」を作る。
1824 文政7 67 妹むら没する。享年65歳。阿部定珍の写本「良寛尊者詩集」成る。
1825 文政8 68 馬之助の妻ゆう没する。享年35歳。貞心尼、長岡の閻魔堂に来る。峨眉山下の橋杭をみて題詩を作る。
1826 文政9 69 引岡村・小林一枝の庵の新築を断る。秋、突然島崎村の木村家裏の庵に移住する。遍澄は地蔵堂願王閣の庵主となる。亀田鵬斎没する。享年75歳。由之、与板に松下庵を結ぶ。
1827 文政10 70 原田鵲斎、加茂で没する。享年65歳。夏、寺泊の密蔵院に仮寓する。貞心尼が島崎木村家を訪れるが不在。秋、貞心尼が再訪問して良寛様と会う。
1828 文政11 71 11月12日三条大地震あり。その漢詩「地震後作」を書く。木村家のために「大蔵経記」を書く。
1829 文政12 72 貞心尼と「与板の烏七首」を歌い交わす。「おかのどの戒語」を書く。「良寛・由之兄弟歌巻」を著す。
1830 天保元 73 7月宮川禄斎、良寛画像を描く。7月より病臥。腹痛下痢症状あり。現代医学では直腸癌であろうといわれる。8月与板に行こうとして、中村家に臥床する。12月鈴木牧之に画賛と短冊を書き与える。12月下旬危篤の報が由之と貞心尼に届く。由之はいったん与板へ帰る。
1831 天保2 74 貞心尼と最後の歌の唱和をする。1月4日に由之来る。1月6日、午後4時頃、示寂する。8日、雪降る中で葬式を行う。7月23日馬之助没する。享年43歳。牧野忠精没する。享年72歳。
1833 天保4 木村家墓地に「良寛禅師墓」建立される。墓石の漢詩は文台撰、和歌は由之撰、書は山本泰世が担当する。三回忌追善法要。鈴木文台、長善館を粟生津に開設する。
1834 天保5 1月13日、弟由之没する。享年73歳。大関文仲没する。享年54歳。遠藤幸助没する。享年64歳。
1835 天保6 貞心尼「はちすの露」成る。三条の宝塔院住職、隆全没する。78歳。乞食の詩碑が八幡神社境内に建てられる。
1838 天保9 阿部定珍、四国行脚の途中、土佐にて没する。享年60歳。
1844 天保15 親友の山田杜皐没する。享年71歳。中村権右衛門没する。享年60歳。
1847 弘化4 近藤万丈「寝ざめの友」成る。若い頃、土佐にて良寛様と出会ったことが書かれている。
1848 寛永元 木村元右衛門没する。享年73歳。
1849 嘉永2 解良栄重「良寛禅師奇話」成る。
1852 嘉永5 妹みか没する。享年76歳。
1859 安政6 解良栄重、2月26日没する。享年50歳。
1867 慶応3 蔵雲和尚「良寛道人遺稿」を刊行する。
1872 明治5 貞心尼、柏崎の不求庵にて2月11日没する。享年75歳。
1876 明治9 遍澄、島崎の妙コ寺にて9月13日没する。享年75歳。
1879 明治12 村山半牧「僧良寛歌集」を刊行する。


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