◎○は、良寛様との関係の深さを示す。
450名(H25.7.7現在)
名 前 |
読 み 方 |
良 寛 様 と の 関 係 |
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あ行 | 相田みつを | あいだみつを | 詩人。書家。詩の代表作「憂い」で「君看雙眼色 不語似無憂」を詠み込む。良寛様の好んだ詩文である。 | |
会津八一 |
あいづやいち |
美術史家。歌人。書家。早稲田大学教授。正岡子規に良寛様の歌や書を紹介する。 |
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青木八郎右衛門 | あおきはちろうえもん | 旧分水町横田の庄屋。良寛様が「熊の森」で泥棒と間違われて浮き埋めにされそうになったのを助けてくれる。 | ||
青柳清作 | あおやぎせいさく | 良寛様が仮住まいしていた郷本空庵が旧寺泊町の多次右衛門の物置小屋であることを見つけ出す。 | ||
安達一久 | あだちかずひさ | 旧寺泊町山田の人。良寛様に衣桁(いこう)を貸す。 | ||
阿部千勢 | あべちせ | 定珍の母。良寛様より六歳年少。 | ||
阿部定緝 | あべていしゅう | 旧分水町渡部の庄屋。阿部家第九代。父定珍と四国巡礼について行き、父の死を看取る。乙子神社の詩碑を小川霞山と共に建立する。 | ||
◎ |
阿部定珍 |
あべていちん |
旧分水町渡部の庄屋。阿部家第七代。外護者。よく歌を詠み交わす。良寛様の生活を支え、最も手紙をもらっている(四十八通)。四国巡礼の途中で亡くなる。ワカとの間に16人の子をもうける。良寛様が亡くなった時は、江戸にいた。 |
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阿部とい | あべとい | 阿部定珍の15番目の子。良寛様が阿部家を訪れた時に目隠し鬼やおはじきをして遊ぶ。 | ||
阿部ます | あべます | 定珍の娘。久保田氏に嫁ぐが、二十歳で病死する。 | ||
阿部ワカ | あべわか | 定珍の妻。良寛様から手紙をもらう。 | ||
○ | 飴屋万蔵 | あめやまんぞう | 新潟市の飴屋。店の看板を五枚、懇願し書いてもらう。新潟に行くとよく泊まる。良寛禅師奇話第四十四話に記載あり。 | |
新井満 | あらいまん | 小説家。新潟市出身。「自由訳 良寛」「自由訳 良寛と貞心尼の恋歌」を著す。 | ||
新木小自在 | あらきしょうじざい | 良寛様のいとこ。周富ともいう。新木家十二代。白雉の孫。良寛様だけでなく、亀田鵬齋や虎斑和尚などとも交わる。 | ||
新木与五右衛門勝富 | あらきよごえもんかつとみ | 旧与板町の庄屋。第十代。橘屋以南の兄。 | ||
○ |
新木与五右衛門富竹 |
あらきよごえもんとみたけ |
旧与板町の庄屋。第九代。白雉ともいう。以南の父親。良寛様の祖父。与五右衛門の名は、代々継承される。俳諧を好む。 |
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新木与五右衛門富春 | あらきよごえもんとみはる | 旧与板町の庄屋。第八代。詳細不明。 | ||
安藤英男 | あんどうひでお | 文学博士。時代小説家。「逸話でつづる生涯 良寛」を著す。 | ||
飯塚久利 | いいづかひさとし | 上野(こうづけ)の歌人。解良家で、「橘物語」を書く。良寛の逸話五遍を載せる。 | ||
井伊直経 | いいなおつね | 与板藩第八代藩主。三条大地震の無縁供養を行い、良寛様はそれに感動し長詩を詠む。 | ||
五十嵐華亭 | いからしかてい | 三条の人。画家。良寛様の肖像画を描く。 | ||
五十嵐多仲 | いがらしたちゅう | 寺泊町の大庄屋、文化10年江戸の武蔵野で亡くなる。良寛様からの追悼歌一首あり。 | ||
五十嵐亮伯 | いからしりょうはく | 良寛様の母親ひでの佐渡の実の祖父。 | ||
○ |
維馨(経)尼 |
いきょうに |
六代・三輪多仲長高の娘。コ昌寺の虎班和尚の弟子。俗名は「おきし」。良寛様との唱和の詩がある。良寛様からの手紙が五通残る。 |
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池田兵左衛門 | いけだひょうざえもん | 長岡藩重役。牧野忠精の訪問前に、良寛様の長岡移住についての交渉を行うが、不調に終わる。 | ||
池田光知 | いけだみつとも | 元長岡工業高等専門学校教授。長岡良寛の会会長。「良寛のきらめき」を著す。良寛様に関する家系図が詳しく示されている。 | ||
石田吉貞 | いしだよしさだ | 国文学者。大学教授。「良寛 その全貌と原像」を著す。 | ||
石橋門阿 | いしばしもんあ | 国上寺の僧。現在の五合庵を大正三年に再建する。 | ||
石原半助 | いしはらはんすけ | 旧寺泊の廻船問屋。姪「しか」の夫。良寛様から詩歌をもらう。屋号は米屋。 | ||
伊丹末雄 | いたみすえお | 元新潟大学教育学部附属中学校教師。良寛様の元妻である関根小左衛門の娘の墓が、旧月潟村の満コ寺にあるという説を発表する。 | ||
市島長民 | いちじまちょうみん | 旧豊栄市横井の人。通称彦右衛門。越後最大の地主の天王の市島家の分家。良寛様は立ち寄り、詩をつくる。 | ||
伊藤喜一郎 | いとうきいちろう | 「呆庵(ほうあん)」ともいう。三条の人。歌人。良寛遺墨収集家。五十嵐川の堤防近くに「良寛堂」を建てる。 | ||
伊藤五兵衛 | いとうごへい | 新潟の上五十嵐の庄屋。母は良寛の妹の「むら」。寺泊の外山家から養子に入る。新潟に行くとよく訪れる。 | ||
伊藤左千夫 | いとうさちお | アララギ派の歌人。「良寛禅師はその人すなわち総て詩なり。その心すなわち詩なり。その詞、すなわち詩なり。されば目に見たる物におのずから動ける心を、ロに出でくるままの詞にて、直ちに歌をなせり。詩の心動いて、詩のしらべ影の物に従ふ如く出で来れるもの、即ち禅師の歌なり」と評する。 | ||
磯部欣三 | いそべきんぞう | 本名・本間寅雄。佐渡史研究家。前佐渡博物館長。良寛様の母の名は「おのぶ」との説を提唱。 | ||
板橋興宗 | いたばしきょうしゅう | 曹洞宗大本山・総持寺貫首、曹洞宗管長となる。現在は御誕生寺住職。「良寛さんと道元禅師」を出版。 | ||
市川関右衛門 | いちかわせきえもん | 三条市の八幡神社の最古の良寛碑の建立者の一人。大火で碑は壊れる。 | ||
井上円了 | いのうええんりょう | 哲学者。教育者。妖怪を研究し『妖怪学講義』を書く。「良寛是れ仏 誤って人間に落つ 人間識らず 寒山を以て比す」の詩を書く。 | ||
○ | 井上桐麿呂 | いのうえきりまろ | 桐齋。三条の庄屋。その功績が認められて次に新発田の庄屋となる。良寛様を尊敬し、五合庵を何度か訪れる。良寛禅師奇話第二十一話に名前が記載されている。 | |
伊能忠敬 | いのうただたか | 享和四十五年、全国測量のために、橘家に宿を借りる。 | ||
今町屋のばあさん | いままちやのばあさん | 名前不詳。三条市本町五の町に家があった。(跡地に看板あり。)三条に遊びに来た時などに、浴衣や褌などを洗ってもらう。 | ||
井本農一 | いもとのういち | 国文学者。大学教授を歴任。「良寛上・下巻」を著す。芭蕉研究の権威。 | ||
いよ | いよ | 第十一代木村元右衛門(利蔵)の妻。実家は大矢家。大矢家の良寛様の遺墨は、良寛の里美術館に寄託される。 | ||
入矢義高 | いりやよしたか | 名古屋大学・京都大学名誉教授。中国文学専門。「良寛詩集」を著す。 | ||
巌田洲尾 | いわたしゅうび | 新潟の儒学者。画家。二人合作の幅があり、洲尾22歳、良寛様五十六歳の作。 | ||
上杉篤興 | うえすぎあつおき | 燕市小関の名主。六郎ともいう。国文学者。上杉家の一族。良寛様や由之と親しく、「良寛歌集(木端集)」を書く。 | ||
上田三四二 | うえだみよじ | 歌人。文芸評論家。小説家。「良寛の歌ごころ」を書く。 | ||
植村脩 | うえむらおさむ | 彫刻家。旧白根市の円通庵に「有願さんと良寛さん蔵」の像を制作する。 | ||
◎ |
有願和尚 |
うがんおしょう |
曹洞宗の僧。道友。書の達人。白根市茨曽根の円通庵に隠居する。良寛様より20歳年上。 |
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内山知也 | うちやまちなり | 元大学教授。文学博士。「良寛詩 草堂集貫華」「定本 良寛全集」などを著す。 | ||
うめ | うめ | 山田杜皐の末娘。良寛様から手習いを教えてもらう。 | ||
宇又 | うゆう | 良寛様からの食べ物と薬の礼状が一通残る。詳細不明。 | ||
円海和尚 | えんかいおしょう | 燕市旧法華堂村にある願成寺の住職。良寛様は願成寺のことを漢詩に詠む。 | ||
○ | 遠藤幸助 | えんどうこうすけ | 三条市二之町の菓子商の主人。屋号は三浦屋。三条に行くとよく立ち寄った。「もの言はぬ花にもの言ふ墓の前」良寛様の墓前で詠んだ句。 「月の兎」の長詩を書いてもらう。 | |
遠藤元助 | えんどうもとすけ |
遠藤幸助の子。良寛様の敬慕者。 |
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王羲之 | おうぎし | 中国東晋の政治家・書聖。良寛様は初期、王羲之の書を学ぶ。 | ||
扇屋重兵衛 | おうぎやじゅうべい | 旧和島村島崎の表具師。「書いてくれるという約束を仏にお仕えする身なら守ってほしい」といって、七言絶句を書いてもらう。 | ||
大越門平 | おおごしもんぺい | 寺泊町の酒造家。立ち寄ってよく酒をいただく。 | ||
太田錦城 | おおたきんじょう | 加賀藩の儒学者。亀田鵬齋と同じ折衷学派。五合庵を訪ねて対話する。 | ||
大里伝兵衛 | おおさとでんべい | 上州屋(醤油屋)の主人。良寛、亀田鵬齋、巻菱湖、富川大塊の四大書家の看板字を書いてもらう。 | ||
大島花束 | おおしまかそく | 教師。良寛研究者。多数の本を書く。「良寛全集」は「大島本」として有名。 | ||
○ | 大関文仲 | おおせきぶんちゅう | 儒学者。由之や文台などとも交流がある。「良寛伝」を書く。晩年盲人となり、曲の盲人といわれる。 | |
太田芝山 | おおたしざん | 加賀大聖寺の人。折衷学の儒学者。越後に来て、五合庵で良寛様と一夜を語り合う。鈴木文台は芝山の講義を手伝う。 | ||
大宮季貞 | おおみやきてい | キリスト教徒。明治四十一年「沙門良寛和歌集」、大正七年「沙門良寛詩集」を著す。 | ||
○ | 大村光枝 | おおむらみつえ | 藤原光枝ともいう。幼名、彦太郎。国学者。歌人。著作「越後の紀行」に良寛様のことが書かれている。 | |
◎ |
大森子陽 |
おおもりしよう |
漢詩漢文の先生。北越四大儒学者の一人。良寛様は十三才から十八才まで子陽の狭川塾で学ぶ。 |
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大森求古 |
おおもりきゅうこ |
子陽の子。晩年は不遇をきわめた。良寛様は「求古を悲しむ歌」を残している。 |
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大谷地五右衛門 | おおやちごえもん | 旧和島村島崎の庄屋。木村家の隣。良寛様の葬式の時、大谷地家が接待所となる。 | ||
大矢六郎左衛門 | おおやろくろうざえもん | 旧島崎村北中の庄屋。二代目。働き者であり、良寛様から詩をもらう。 | ||
大矢良左衛門 | おおやりょうざえもん | 旧島崎村北中の庄屋。木村利蔵の妻の実家。利蔵の子周蔵が勘当されて、大矢家に転がりこむ。 | ||
岡鹿門 | おかかもん | 東京図書館長。明治二十一年に新潟に来て、「北越遊乗」を著す。その中で良寛のことを書く。 | ||
おかの |
おかの |
木村利蔵の娘。良寛様は「おかのどの戒語」を残している。 |
||
岡本勝美 | おかもとかつみ | 良寛研究者。「良寛争香」を著す。昭和五十一年、大阪府の高代寺に歌碑を建立する。 | ||
○ | 小川霞山 | おがわかさん | 武田霞山、橘茂孝ともいう。医師。画家。良寛様を慕い、乙子神社の境内に庵をつくり住む。乙子神社の詩碑を阿部定緝と共に建立する。 | |
お吉 | おきち | 良寛様の母のぶの佐渡の母。 | ||
奥村五兵衛 | おくむらごへい | 貞心尼(マス)の父。長岡藩士。鉄砲鍛冶師。 | ||
小黒宇兵衛 | おぐろうへい | 出雲崎町尼瀬の人。入道速円。長男が大忍魯仙和尚であり、大忍は良寛様と交わりが深い。 | ||
小黒小兵衛 | おぐろこへい | 旧和島村上桐の組頭。当家の割木小屋に勝手に泊まり、泥棒と間違えられた。酒を酌み交わしたり、歌を詠んだりしている。 | ||
小越仲a | おこしちゅうみん | 旧寺泊町夏戸の医師。素行に問題があり、所払いとなる。良寛様に歌で諭される。 | ||
小田島允武 | おだじまのぶたけ | 彦次郎ともいう。「越後野志」を著す。その中に良寛道人伝がある。良寛様に関係する地名も多く出ている。 | ||
おとき | おとき | 三条市の八幡小路の一文菓子屋のばあさん。よく洗濯物を洗ってくれた。 | ||
乙助 | おとすけ | 元士族の溝口乙助と伝わる。良寛様の書簡に出てくる。問題を起こし、溝口藩の役人に追われるが、良寛様の取りなしにより命を救われる。 | ||
小野道風 | おののみちかぜ |
平安時代前期に活動した書道家。中国的な書風から脱皮しての和様書道の基礎を築いた人物と評される。後に藤原佐理と藤原行成とあわせ、「三蹟」と称される。秋萩帖の作者である。良寛様は秋萩帖で書を学ぶ。良寛禅師奇話第十四話に記載あり。 |
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おむろ | おむろ | 九代、中村権右衛門(好哉・よしちか)の妻。おむろ宛の金銭の受け取り証が残っている。 | ||
おゆう |
おゆう |
山本馬之助の妻。「遊子」ともいう。山田権左衛門修富の娘。馬之助の妾の子の面倒もみる。三十五歳で亡くなる。 |
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およい | およい | 山本由之の長女。茨曽根・関根家敬助に嫁ぎ、佐知(さち)と改名する。 | ||
○ | およし | およし | 旧与板町の町年寄、山田杜皐の嫁。良寛様とはとても親しく、よく酒や食べ物などを与えている。良寛様に「ほたる」というあだ名を付ける。 | |
か行 | ○ | 懐素 | かいそ | 唐の高僧。書の達人。良寛様は懐素の「自敍帖」より書を学び、大きな影響を受ける。 |
海津間兵衛 | かいづまひょうえ | 旧分水町竹ヶ花の村上藩の武士。よく訪れ、飯を食べさせてもらう。「海津氏宅即事」という詩がある。 | ||
覚賢和尚 | かくけんおしょう | 妹「みか」が嫁に行った浄玄寺の曽根智現和尚の父。親しい間柄で、「秋日与天華上人遊雲崎」の詩あり。 | ||
景山和尚 | かげやまおしょう | 旧吉田町法花堂にある願生寺の住職。良寛様と親しく、願生寺を詠んだ詩があり、この詩碑が境内に建てられている。 | ||
粕川家 | かすかわけ | 旧分水町渡部にある菅原神社の神官の家。時々泊まり、子どもらと遊ぶ。 | ||
菓子屋三十郎 | かしやさんじゅうろう | 出雲崎町の菓子屋。白雪羔を製造する。良寛様からその菓子を無心する手紙をもらう。 | ||
桂誉章 | かつらたかあき | 新津市の庄屋。桂家四代目。新次郎ともいい、山本家の秀子(おのぶ)の養子となるが、離婚する。以南はその後、秀子と結婚し、良寛様を生む。 | ||
○ |
桂東吾 |
かつらとうご |
新津市の庄屋。六代目誉正(たかまさ)ともいう。良寛様や由之とも親交がある。 |
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桂東起子 |
かつらときこ |
東吾の妻。時子。歌人。良寛様に好物の石榴を贈る。良寛様の弟の由之が歌の師。 |
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○ |
加藤僖一 |
かとうきいち |
現代の良寛研究の第一人者。新潟大学名誉教授。書の達人。著書多数。 |
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加藤千蔭 | かとうちかげ | 「万葉集略解」を著す。良寛様はこれを友人に借りて万葉集のことを学ぶ。 | ||
金子紀一郎 | かねこきいちろう | 大忍国仙が北魚沼郡千田村千谷の新保家の庄之助であることをつきとめる。以前は埼玉県岡部村出身といわれていた。 | ||
◎ |
亀田鵬齋 |
かめだぼうさい |
江戸の漢学の先生であり、書の達人。親しく交流する。出雲崎に三回訪れ、鳥井家に滞在する。多くの逸話を残す。 |
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蒲生重章 | がもうしげあき | 幕末明治の儒学者。医者。「良寛伝」を著す。 | ||
唐木順三 | からきじゅんぞう | 評論家。哲学者。「最も日本人らしい日本人。日本的な詩人」と評する。 | ||
柄沢栄清 | からさわよしきよ | 解良叔門の弟。柄沢家に養子に入る。旧和島村上桐に住む。良寛様はここで二首歌を詠む。良寛様追悼の歌を残す。 | ||
川端康成 | かわばたやすなり | ノーベル賞授賞式の記念講演で、良寛様の歌を紹介する。 | ||
勧励和尚 | かんれいおしょう | 刈羽郡椎谷の浄土真宗祐光寺の住職。中国から流れ着いた「蛾眉山下橋の流木」の詩歌を広く募集する。これに応じて、良寛様は「七言四行詩」を作成する。 | ||
河井秋紀 | かわいあきのり | 長岡藩の家臣・河井継之助の父。良寛様は河井家に行き、書籍を借りる。 | ||
川村芳夫 | かわむらよしお | 良寛様の詩の「玉川駅に宿る」の玉川は、従来の山形県の羽黒町の玉川ではなく、新潟県境に近い小国町の玉川であるとの新説を出す。 | ||
観国和尚 | かんこくおしょう | 燕市の溝古新の清伝寺の第八代目住職。良寛様は詩集を借りる。良寛禅師奇話第十七話にも名前が記載されている。 | ||
○ | 寒山 | かんざん | 唐の詩人。天台山に寒山と拾得(じっとく)という禅僧が住んでいて、詩や画を書いた。その人物たちの詩を「寒山詩」という。良寛様はこの詩を愛読する。 | |
観励和尚 | かんれいおしょう | 旧西山町田沢の浄土真宗祐光寺住職。「峨眉山下橋の詩」を募る。良寛様はこれを受けて、七言絶句をつくる。 | ||
きく | きく | 三浦屋・遠藤幸助の妻。三条に来た際には、夫婦で良寛様をお世話する。 | ||
喜撰法師 | きせんほうし | 平安朝の歌人。六歌仙の一人。出家してその後仙人となり、雲に乗り飛び去ったと伝えられる。亀田鵬斎は良寛様を喜撰法師のようだと評する。 | ||
北大路魯山人 | きたおおじろさんじん | 陶芸家。書道家。美食家。良寛様の書を、容易にあり得ない素晴らしい良能の美書であると絶賛する。 | ||
北川省一 | きたがわせいいち | 良寛研究家。「漂泊の人良寛」「大愚良寛の生涯」など著作多数。 | ||
義諦 | ぎてい | 長岡市福島の浄土真宗西誓寺如実庵主。良寛様と歌で阿弥陀の誓いについての問答をする。 | ||
○ | 義提尼 | ぎていに | 国仙和尚の末弟子。良寛様は兄弟子。歌人。良寛様に和歌の影響を与える。 | |
○ | 木村周蔵 | きむらしゅうぞう | 木村家第十二代元右衛門。利蔵の子。放蕩にふけったため、十一代目に勘当される。しかし、良寛様の取りなしで勘当がとける。良寛様からの訓戒の手紙が一通残る。 | |
◎ |
木村利蔵 |
きむらとしぞう |
旧和島村島崎の豪農。第十一代元右衛門。外護者。十代の遺言を守り、大蔵経を髏寺に納める。良寛様を迎え入れる。木村家の庵で良寛様は示寂する。 |
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木村元右衛門 | きむらもとえもん | 第十代元右衛門。大蔵経を髏寺に寄進することを考える。 | ||
九二 | きゅうじ | 「くに」ともいう。「島崎草庵の図」を描く。現在は糸魚川市歴史民俗資料館にある。 | ||
九之助 | きゅうのすけ | 旧和島村島崎の豆腐屋。良寛様に「天満大自在在天神」と書いてもらう。「在」が一つ多いと指摘されるが、「いつもおからをまけてもらうので、一字まけてやった」と答える。 | ||
金七 | きんしち | 良寛様も信仰した与市地蔵を島崎川より救い出したと伝えられる。地蔵は木村家の近くに安置される。 | ||
久住小兵衛 | くすみひょうえい | 旧和島村中沢の曲田の庄屋。よく立ち寄り、書をかく。しかし、直ぐに丸めてしまうので、丸める前に「乾かす」という名目でいただき、たくさん書を集める。 | ||
久須美七左衞門 | くすみしちざえもん | 旧和島村小島谷の代官。暘谷館(ようこくかん)という学問所を建てる。良寛様も立ち寄ることがあり、白木の板に「暘谷館」と書き込んで、逃げ去ったとのこと。 | ||
工藤美代子 | くどうみよこ | ノンフィクション作家。講談社ノンフィクション賞受賞。「良寛の恋-炎の女貞心尼」を著す。 | ||
久末 | くま | 良寛様の妹の「たか」の子。姪。旧分水町の熊の森の勝誓寺に嫁ぐ。良寛様は、時折、寺を訪れる。 | ||
黒田玄鶴 | くろだげんかく | 塩沢町の人・江戸の昌平黌(しょうへいこう)で儒学を、京都で医学を学ぶ。耐火性のあるの布・火浣布(かかんぷ))をつくる。良寛様の庵を訪れ、漢詩を作る。 | ||
桑原謙一 | くわばらけんいち | 三条市田島興野の医師。良寛様の書のコレクターとして知られる。 | ||
桑原仁雷 | くわばらじんらい | 旧和島村の良寛研究家。桑原祐雪の孫。良寛様の「和島時代」を丹念に調べる。 | ||
○ |
桑原祐雪 |
くわばらゆうせつ |
旧和島村島崎の医師。河童医者といわれ、良寛様はそのいわれを「水神相伝」にまとめる。 |
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桑原祐順 | くわばらゆうじゅん | 桑原祐雪の子。医師。親子二代にわたって良寛様と親しく交流する。良寛様からの手紙が一通残る。 | ||
解良喜右衛門 | けらきえもん | 旧分水町佐善の人。良寛様をもてなしてくれたお礼に「糸ひば」の木を贈られる。直接良寛様が庭に植えたという。 | ||
解良義平太 | けらぎへいた | 解良一族の一員。詳細不明。良寛様から手紙を一通もらう。 | ||
解良熊之助 | けらくまのすけ | 解良家第十二代。叔問の三男。名は、「栄」。熊之助の結婚式の時、良寛様は扇子箱を祝いに持って祝辞を述べる。五十三歳で亡くなる。 | ||
◎ |
解良叔問 |
けらしゅくもん |
旧分水町牧ヶ花の庄屋。解良家第十代。外護者。解良家の中でも特に親しかった。村民から慕われていた。 |
|
解良新八郎 | けらしんぱちろう | 叔問の父。解良家第九代。名は「栄明」。良寛様から「酒を飲み過ぎないように」との手紙をもらう。 | ||
解良兵右衛門 | けらひょうえもん | 叔問の弟。名は「栄清」。後に上桐の柄澤家の養子となる。叔問を助けて、解良家をささえる。 | ||
解良孫右衛門 | けらまごえもん | 解良家第十一代。名は「栄忠」。叔問の次男。一時期身をもちくずしていたが、良寛様から手紙をもらい立ち直る。三十一歳で亡くなる。 | ||
解良雄四郎 | けらゆうしろう | 叔問の四男。片貝村で酒造業を営む佐藤家の婿養子となる。 | ||
◎ |
解良栄重 |
けらよししげ |
「えいじゅう」ともいう。解良家第十三代。叔問の五男。幼名・正八(正月八日に生まれたからといわれている。)。号・牧羊子。「良寛禅師奇話」を書く。貴重な資料となる。 |
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○ | 玄乗破了 | げんじょうはりょう | 出雲崎町の光照寺の住職。国忍の三番目の弟子。良寛様剃髪時の師。 | |
賢深和尚 | けんしんおしょう | 真言宗妙徳寺の住職。良寛様の法弟・遍澄は最初、賢深和尚に預けられ、読み書きを学ぶ。 | ||
玄透即中 | げんとうそくちゅう | 大忍国仙の後を受けて円通寺第十一代住職となる。国仙とは禅の方針に相違があり、良寛様が円通寺を出ることになった原因との説あり。 | ||
孝順尼 | こうじゅんに | 貞心尼の弟子。六歳で入門する。 | ||
◎ |
国仙和尚 |
こくせんおしょう |
仏法の師。良寛は国仙の二十九番目の弟子。大忍国仙ともいう。円通寺第十代住職。 |
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小島寅雄 | こじまとらお | 元全国良寛会会長。元鎌倉市長。「ふりむけば良寛」「良寛と七十年」など著書多数。 | ||
小島正芳 | こじままさよし | 良寛研究の第一人者、大学の学生の頃より良寛研究に取り組む。「八一と良寛」等書物、研究論文多数。元三条高校校長 | ||
小玉理兵衛 | こだまりへい | 出雲崎町稲荷町の廻船問屋の主人。良寛様は頼み事の手紙を送っている。 | ||
五滴 | ごてき | 母と共に出雲崎に来る。京都の画家。詩、書、画、琴、篆刻の五つに優れていたので、五滴と称する。五良寛様が「籠屋」と書いた扁額に書き込みを入れ、合作を残す。 | ||
弘智法印 | こうちほういん | 西生寺において即身仏となる。良寛様の詩で、「弘智法印の像に題す」がある。 | ||
こしの千涯 | こしのせんがい | 画家。本名・斉藤作一。相馬御風から「良寛に生きなさい」といわれ、良寛の絵を描き続ける。 | ||
小林一茶 | こばやしいっさ | 江戸後期の俳人。通称弥太郎。良寛様と同世代。「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の句あり。 | ||
小林卯兵衛 | こばやしうへい | 三条市の八幡神社の最古の良寛碑の建立者の一人。大火で碑は壊れる。 | ||
小林群鳳 | こばやしぐんぽう | 石工。木村家門前の「良寛禅師遷化之地」の碑を刻す。 | ||
小林粲桜 | こばやしさんろう | 新潟新聞主筆。俳人。歌人。郷土研究史「高志路」創刊。「弥彦神社附国上と良寛」を著す。 | ||
○ | 小林二郎 | こばやしじろう。 | 良寛研究家。明治十二年に村山半牧遍「僧良寛歌集全」を出版し、また明治二十六年「僧良寛上人詩集全」、明治三十五年「僧良寛上人歌集全」を出版する。明治期に多くの成果を上げる。 | |
小林新一 | こばやししんいち | 新潟県写真家協会顧問。良寛様と会津八一をテーマに写真を撮り続ける。「良寛巡礼」「良寛の風景」などを出版する。 | ||
小林正左衞門 | こばやししょうざえもん | 和島村の庄屋。良寛様の姪の「外山津多」が嫁ぐ。手鞠、菓子、にまめなどを贈り、良寛様から礼状をもらう。 | ||
小林秀雄 | こばやしひでお | 日本の近代批評の確立者。良寛様の書「地震の作」を吉野秀雄に示し、贋作と間接的に指摘され、その場で破り捨てる。 | ||
小林与三兵衛 | こばやしよそべえ | 旧寺泊町の引岡の人。一枝(かずえ)ともいう。良寛様と歌を詠み交わした遺墨が伝わる。 | ||
虎班和尚 | こはんおしょう | 旧与板町コ昌寺の第二十六代住職。維馨(経)尼の師。大蔵経を購入する。維馨(経)尼も購入に尽力する。 | ||
小師壮吉 | こもろそうきち | 三条市の新聞店の主人。佐渡の和歌3首を所有しており、良寛堂と相川歌碑に使用される。 | ||
近山五右衛門 | こんざんごえもん | 弥彦村の庄屋。餅、砂糖、金山寺味噌などを贈る。 | ||
権三 | ごんぞう | 旧分水町地蔵堂の船頭。良寛様を西川の途中で舟を揺らし、川に落としたとされる。結局は救い出し、良寛様に詫びたという。 | ||
権田雷斧 | ごんだらいふ | 旧西越村出身。大正大学学長。出雲崎町に良寛寺(良寛堂となる)建立を計画立案する。 | ||
○ | 近藤万丈 | こんどうばんじょう | 国学者。歌人。通称又兵衛。良寛様と土佐で出会ったことを「寝覚の友」に著す。良寛禅師奇話第五十六話に記載あり。 | |
さ行 | 西海土庄左衛門 | さいかちしょうざえもん | 旧分水町笈ヶ島の人。蔵書家。時折立ち寄り、本を読ませてもらう。 | |
○ |
西行 |
さいぎょう |
平安から鎌倉時代にかけての歌僧。俗名・佐藤義清。武士であったが、二十三歳で出家し、諸国をめぐる。良寛様は、西行にあこがれて京都や吉野山。高野山などを訪れる。 |
|
斎藤源右衛門 | さいとうげんえもん | 旧分水町中島の庄屋。廻船問屋。伊右衛門ともいう。良寛様にりんご、百合根、金平糖、てんぷら、恵胡などのめずらしいものを贈る。 | ||
齋藤達也 | さいとうたつや | 小説家。小説「酒虫」で第六回新潟出版文化賞受賞。「良寛さんの会話術」やガイドブック「良寛との旅」などを著作する。 | ||
斎藤忠蔵 | さいとうちゅうぞう | 新発田市米倉の大庄屋。詩経や書経などを借りる。 | ||
斎藤清内 | さいとうせいない | 旧和島村島崎の人。木村家の近くにあり、その庭で近くの子どもたちと遊ぶ。良寛様は孫の手本や祖先の位牌を書いてやる。 | ||
斎藤茂吉 | さいとうもきち | 歌人。「良寛和歌集私鈔」を書き、良寛様の歌を高く評価する。 | ||
酒井角左衛門 | さかいかくざえもん | 旧分水町横田の医師。よく立ち寄る。良寛様の叔母が嫁ぐ。 | ||
坂口文仲 | さかぐちぶんちゅう | 医師。文学者。良寛様を「ニセ道人」と酷評した。五合庵で歌を詠み交わす。子孫に坂口安吾が出ている。 | ||
定清 | さだきよ | 旧島崎村の藤井平左衛門らしい。良寛様からの手紙が一通残る。詳細不明。 | ||
さち | さち | 山本馬之助の妹。旧白根市茨曽根の関根丹治の妻となる。 | ||
里う | さとう | 山本由之の血を継ぐ、茨曽根・関根家の娘。山本家橘屋の養女となり、山本家の血脈を守る。 | ||
佐藤吉太郎 |
さとうきちたろう |
郷土史家。良寛研究家。俳人。良寛記念館の完成に尽力した。「耐雪」ともいう。 |
||
佐藤吉郎右衛門 | さとうきちろうえもん | 出雲崎町中山の庄屋。近くに良寛様が仮住まいした西照庵がある。良寛様に酒などを贈る。寒山詩集を屏風の下張りに書き込み、逃げ去る。その遺墨あり。 | ||
佐藤佐平次 | さとうさへいじ | 小千谷市片貝の醸造家。あわもりをおくった礼状を良寛様よりもらう。 | ||
佐藤三郎右衛門 | さとうさぶろうえもん | 旧中之島町の庄屋。同家に鉢の子を忘れる。戻ると鉢の子があったので、喜び長歌を詠む。 | ||
佐藤岱博 | さとうたかひろ | 石工。五合庵の句碑「たくほどは・・・」の刻者。詳細不明。 | ||
佐藤寅次 | さとうとらじ | 旧分水町渡部の人。書の約束を得たが、なかなか書いてもらえなかったので、部屋に閉じこめて書いてもらう。 | ||
佐藤仁左衛門 | さとうにざえもん | 良寛様より餅、砂糖を贈った礼状を一通貰う。出雲崎町の中山か寺泊町の夏戸の人らしい。詳細不明。 | ||
左之助 | さのすけ | 旧寺泊町野積の荒谷の人。同家に観音堂があり、よくお参りをする。その理由を聞くと「観音様が母親によく似ている」と答える。 | ||
しか | しか | 妹「たか」の子。寺泊の石原半助の妻となる。 | ||
茂木弘次 | しげきひろつぐ | 出雲崎町出身。彫刻家。良寛様の銅像を多数つくる。 | ||
七星 | しちせい | 出雲崎町の俳人。幼い頃、一緒に遊んだ友人。山本以南とも俳諧で交流する。 | ||
実善和尚 | じつぜんおしょう | 旧分水町の熊の森の勝誓寺第十代住職。良寛様の妹たかの子、久未の夫。 | ||
渋谷酒左衛門 | しぶやしゅざえもん | 見付市三貫野の大庄屋。橘屋山本家の遠縁。時折訪れる。提灯の代わりに行灯を借りて立ち去る。 | ||
若水 | じゃくすい | 坡丈の弟子。詳細不明。良寛禅師奇話第五十四話に記載あり。 | ||
祥二 | しょうじ | 国上村の人と伝わる。良寛様からの手紙が一通残る。詳細不明。 | ||
証聴 | しょうちょう | 旧寺泊町蛇塚の僧。詩歌に優れ、貞心尼とも親交がある。良寛様からの手紙が二通残る。 | ||
真教和尚 | しんきょうおしょう | 与板町の蓮正寺の住職。山本以南の妹「スヨ」が嫁ぐ。蓮正寺には、良寛様の書いた「自然の碑」「法尓の碑」がある。 | ||
神保杏村 | じんぼきょうそん | 燕市の富豪。文墨を好む。亀田鵬齋や巌田洲尾、良寛様らと交流する。良寛様と同じ年に亡くなる。 | ||
心竜尼 | しんりゅうに | 貞心尼の師。姉に眠竜尼がいる。 | ||
○ | 管江真澄 | すがえますみ | 書家。文人。「国上山の手鞠上人良寛」を書く。 | |
杉本春良 | すぎもとしゅんりょう | 医者。画家。煙草入れに紐がついている「良寛座像」を描く。よく煙草入れを忘れたという。 | ||
杉安嘉正 | すぎやすよしまさ | 大分県杵筑市文化財団調査委員。良寛研究家。「良寛さんを辿る」を著す。良寛様を学習する上でよくまとめられた書物である。 | ||
鈴木見義 | すずきけんぎ | 粟生津の医師。鈴木文台の父。 | ||
○ | 鈴木桐軒 | すずきとうけん | 粟生津の医師。文台の兄。隆造ともいう。良寛様が昼寝をしている時に、頭蛇袋から防備メモを失敬し、貴重な資料となる。良寛様からの手紙が五通残る。 | |
鈴木順亭 | すずきじゅんてい | 鈴木桐軒の長子。若い頃、文台に学び、医者をめざしたが、病気で二十四歳で亡くなる。良寛様の「草堂集」の校訂をする。 | ||
◎ |
鈴木文台 |
すずきぶんたい |
粟生津の人。良寛様は「この子は将来、大成するであろう。」と賞賛した。良寛様に関する多くの評論を残す。長善館をつくり多くの人材を育成する。明治三年、七五歳で亡くなるまで、四三五人の門人に教えた。 |
|
鈴木牧之 | すずきぼくし | 「北越雪譜」の作者。塩沢の人。良寛様に、自筆の山水図に詩を書いてもらう。 | ||
スヨ | すよ | 山本以南の妹。良寛様の叔母。与板町の蓮正寺の住職・真教の妻。蓮正寺には、良寛様の書いた「自然の碑」「法尓の碑」がある。 | ||
関川万輔(助) | せきかわまんすけ | 出雲崎町の歌人。賭け碁をして三回勝ち、「柿もぎの金玉寒し秋の風」の句を三回書いてもらう。 | ||
関長温 | せきちょうおん | 医師。貞心尼の元夫。子供がなくて別れる。 | ||
関根小左衛門 | せきねしょうざえもん | 旧白根市茨曽根の組頭。その娘が良寛様と結婚をしたが、生活力がないということで離婚したと伝えられる。しかし、確定した話ではない。 | ||
瀬戸内寂聴 | せとうちじゃくちょう | 小説家。小説「手鞠」を著作する。 | ||
○ | 仙桂和尚 | せんけいおしょう | 国仙和尚の十七番目の弟子。良寛様の法兄であり、「仙桂和尚は真の道者」と評する。 | |
宗庵 | そうあん | 旧寺泊町の医師と伝わる。良寛様からの手紙が一通残る。詳細不明。 | ||
蔵雲和尚 | ぞううんおしょう | 前橋の龍海院住職。「良寛道人遺稿」を慶応三年に出版する。貞心尼と親交がある。 | ||
◎ |
宗龍禅師 |
そうりゅうぜんじ |
大而宗龍ともいう。良寛様に僧のあり方に大きな影響を与えた禅師。旧紫雲寺町の観音院の住職をしている時に、良寛様は訪れている。生涯に三度会っているといわれる。 |
|
◎ |
相馬御風 |
そうまぎょふう |
詩人。歌人。評論家。良寛研究に多大な業績を残す。 |
|
曽根智現 | そねちげん | 出雲崎町の浄玄寺の住職。妹「みか」の夫。 | ||
杣木勘助 | そまぎかんすけ | 旧分水町国上の人。多くの書を書いてもらう。書き損じの紙は障子紙に使用する。 | ||
尊円法親王 | そんえんほうしんのう | 伏見天皇の第6皇子。尊円流と称される書法を作り出す。良寛様は、親王の「梁園客法帖」を学ぶ。 | ||
た行 | ○ | 大機和尚 | だいきおしょう | コ昌寺の住職。良寛様の葬儀の導師を務める。 |
大宣 | だいせん | 僧侶。良寛様を訪れた時、留守であったが、後で良寛様は歌を贈る。内藤久武の友人。 | ||
泰禅和尚 | たいぜんおしょう | 柏崎市の洞雲寺の住職。貞心尼に得度をあたえる。 | ||
大舟和尚 | だいしゅうおしょう | 旧白根市茨曽根の永安寺住職。有願和尚や大森子陽などが学ぶ。 | ||
泰澄法師 | たいちょうほうし | 国上寺(真言宗)を開基する。創建は和銅二年(七〇九年)。越後で最も古い寺とされている。 | ||
○ | 大忍魯仙 | たいにんろせん | 埼玉県深谷市の慶福寺住職。出雲崎町尼瀬出身。「無礙集」を出版。この中に「良寛道人の偈を読む」「良寛道人を懐う」がある。よき理解者である。 | |
○ |
たか |
たか |
良寛様の妹。以南の次女。高島伊八郎に嫁ぐ。四男十女の子供を養育する。 |
|
高島伊右衛門 | たかしまいえもん | 妹「たか」の子。伊八郎の跡を継ぐ。 | ||
高島伊八郎 |
たかしまいはちろう |
出雲崎町の町年寄。妹「たか」の主人。 |
||
高嶋常右衛門 | たかしまつねえもん | 名は正貞。良寛様と托鉢の途中、酒を飲みかわしたと伝えられる。旧岩室村の高島屋旅館の祖先。 | ||
高橋郁丸 | たかはしふみまる | 漫画家。イラストレーター。「良寛ものがたり」「貞心尼ものがたり」を漫画で描く。 | ||
高山彦九郎 | たかやまひこくろう | 勤王の士。父以南の盟友。倒幕計画にも関係する。以南も影響を受ける。 | ||
滝川昆堂 | たきがわびどう | 新潟県直江津出身の彫刻家。本名は滝川美一。良寛様のお墓のある隆泉寺の良寛像の制作者。 | ||
竹内源右衛門 | たけうちげんえもん | 旧寺泊町の人。新しい庵を造り、国上山から下りてくるよう勧める。 | ||
武田鏡村 | たけだきょうそん | 新潟県生まれ。作家。日本歴史宗教研究所所長。 「良寛 悟りの道」を著す。 | ||
多治右衛門 | たじえもん | 良寛様が仮住まいした寺泊の郷本空庵の持ち主。 | ||
田代亮介 | たしろりょうすけ | 柏崎市の医師。岡山県の円通寺に良寛様の遺墨十二点を寄贈し、岡山県の文化財に指定される。 | ||
田瀬甚左衛門 | たせかんざえもん | 旧分水町興野の人。万元上人が三年間、滞在したといわれ、その因縁で時々立ち寄る。 | ||
橘馨 | たちばなかおる | 旧白根市根岸の林正寺の住職。良寛地蔵を建立する。(昭和五十六年八月) | ||
○ |
橘香 |
たちばなかおる |
良寛様の弟。以南の四男。泰信ともいう。勤学館学頭(塾長)となる。博学多才の秀才。 |
|
○ |
橘彦山 |
たちばなげんざん |
狭川塾の学友。橘崑崙の兄。寺泊の郷本の庵に良寛様がいるかどうかを確かめに行く。 |
|
○ |
橘崑崙 |
たちばなこんろん |
三条の人。「北越奇談」六巻の著者。良寛様の記述が見られる。大森子陽の親戚。 |
|
橘千蔭 | たちばなちかげ | 加藤千蔭ともいう。歌人。書家。国学者。賀茂真淵に学ぶ。「万葉集略解」を著す。良寛様はこの書から万葉集を学ぶ。 | ||
立松和平 | たてまつわへい | 小説家。「良寛」「良寛のことば」を書く。 | ||
田中圭一 | たなかけいいち | 良寛の父は以南ではなく、新津の桂家の新次郎(四代目桂誉章)であるとの新説を出す。離婚した後、以南が養子に入っている。しかし離婚・結婚の時期からして、無理があると指摘されている。 | ||
谷口吉郎 | たにぐちよしろう | 建築家。文化勲章受章。良寛記念館の設計者。 | ||
○ | 谷川敏朗 | たにかわとしろう | 高校教師。良寛研究家。著書多数。「良寛全歌集」「底本 良寛全集」など。 | |
種田山頭火 | たねださんとうか | 自由律俳人。五合庵を訪れ、「青葉分け行く良寛さまも行かしたろ」の句を残す。本覚院にその句碑が建つ。 | ||
玉木勝良 | たまきかつら | 良寛様に書を貸したら「おれがの」と書き込みをされたので、注意したという逸話あり。 | ||
玉木礼吉 | たまきれいきち | 長善館卒業生。小学校教員。良寛研究者。「良寛全集」を書く。五合庵前に良寛句碑を建立する。 | ||
たみ | たみ | 解良叔問の妻。五男八女を生む。 | ||
団子茶屋利右衛門 |
だんごぢゃやりえもん |
三条市一ノ木戸の神明神社近くの茶屋の主人。良寛様の崇拝者。立ち寄ると面倒をみる。 |
||
智海 | ちかい | 狂僧といわれる。解良家において、敬慕されている良寛様に嫉妬し、殴りかかったとされる。良寛禅師奇話第十一話に記載されている。 | ||
近山五左衛門 | ちかやまござえもん | 弥彦村山麓の名主。良寛様から一通の礼状を貰う。 | ||
ちりきや由右衛門 | ちきりやよしえもん | 出雲崎町の妓楼「睡龍館」の主人。俳諧を好み、父以南とも親交がある。手毬を贈る。良寛様より二通の手紙が残る。 | ||
知空童子 | ちくうどうし | 良寛様の兄といわれる。夭折する。名前は「ともたか」といわれる。 | ||
智光童子 | ちこうどうじ | 良寛様の弟・香と妹・みかの間にいたとされる妹。六歳で夭折する。本当の名前は不詳。山本家菩提樹の円明院過去帳に記載されている。 | ||
智譲尼 |
ちじょうに |
貞心尼の弟子。貞心尼が亡くなるまで仕える。 |
||
智定尼 | ちじょうに | 旧和島村小島谷(おじまや)の尼。良寛様の香典帖に「小島谷庵主」の記載あり。この庵に泊まったりしたこともあるらしい。 | ||
○ | 長造 | ちょうぞう | 島崎の床屋。良寛様を雑炊宗(ぞうすいしゅう)といってからかう。 | |
長六 | ちょうろく | 島崎の桶屋。酒飲みで、なかなか仕事をしないので、良寛様は催促をする。 | ||
津田青楓 | つだせいふう | 洋画家。水墨画家。夏目漱石に絵を教える。「良寛随筆」「良寛父子伝」を著す。良寛様の遺跡を訪ね歩き、多くの随筆を書く。 | ||
敦井栄吉 | つるいえいきち | 敦井産業創始者。良寛様の書のコレクター。新潟市の敦井美術館に展示されている。 | ||
貞室尼 | ていしつに | 九代三輪権平長凭の母。良寛様だけでなく由之とも親しく、由之より歌を習う。 | ||
◎ |
貞心尼 |
ていしんに |
歌の弟子。最も愛した女性。良寛歌集「蓮の露」をまとめる。俗名を「奥村マス」という。 |
|
てふ | てふ | 山本馬之助の子・泰世の妻。 | ||
藤江 | とうえ | 旧分水町牧ヶ花の医師。解良家に遊びに行った時、良寛様と碁を打つ。 | ||
陶淵明 | とうえんめい | 中国東晋の詩人。田園生活を賛美する詩を多く作る。詩集「陶淵明集」を著す。良寛様に大きな影響を与える。 | ||
○ | 道元 | どうげん | 曹洞宗の開祖。道元の著書「正法眼蔵」に強く影響を受ける。 | |
東郷豊治 | とうごうとよはる | 心理学者。良寛研究者。元大学教授。著作「良寛」は読売文学賞受賞。著書多数。 | ||
富川伊右衛門 | とみかわいえもん | 旧栃尾市の人。長岡藩の検断職。玄獄ともいう。詩や書に優れる。山本家橘屋と親戚。甥の大塊を養子にする。良寛様は時折立ち寄りご馳走になる。 | ||
富川大塊 | とみかわたいかい | 書家。画家。上州屋の四看板(良寛、亀田、巻、富川)の一つを書く。 | ||
冨澤信明 | とみざわのぶあき | 新潟大学名誉教授。良寛及び由之研究家。東北民藝館館長。 | ||
富取庫之丞 | とみとりくらのじょう | 富取正誠の子。幼名倉太。富取家九代。富取北川の弟。良寛様と親交あり。 | ||
富取長太夫 | とみとりちょうたゆう | 富取家七代。囲碁を好み、良寛様とよく打つ。良寛禅師奇話第十七話に記載あり。 | ||
富取芳齋 | とみとりほうさい | 画家。「手紙の字だけは子供が読んでも分かるように書くべき」と良寛様に言ったと伝えられる。 | ||
富取北川 | とみとりほくせん | 富取正誠の子。地蔵堂の医師。良寛様と親交あり。「いんきんたむし」の薬を贈る。 | ||
富取北川の妻 | とみとりほくせんのつま | 名前不詳。良寛禅師奇話十六段に、良寛様に結婚式の祝いの詞を教えたとの記載あり。 | ||
富取正誠 | とみとりまさのり | 旧分水町地蔵堂の大庄屋・富取家第八代目武左衛門(たけざえもん)。幼名小弥太。直接の交流があり、詩歌をたしなみ、良寛様から妻を失った時の弔慰の歌をもらう。 | ||
◎ |
富取之則 |
とみとりゆきのり |
狭川塾の学友。儒学者。三春藩の藩儒となる。鳥井長兵衛、富取長太夫正則とは兄弟。 |
|
富取翼夫 | とみとりよくふ | 子陽塾時代の友人。富取支族武七家二代目。正基。幼名良助。良寛様の彼に関する詩がある。 | ||
鳥井長兵衛 | とりいちょうべえ | 敦賀屋の主人。大庄屋富取家(長太夫正則の弟)から養子に入る。橘屋とはライバル関係。 | ||
○ |
鳥井直右衛門 |
とりいなおえもん |
敦賀屋の主人。長兵衛の子。ただし富取家からの養子。富取正誠の弟。出雲崎の町年寄。後に名主となる。良寛様からの手紙が二通残る。 |
|
外山乙五郎 | とやまおとごろう | 良寛様の妹「むら」の子。滝谷寺の住職となる。日養上人。本寿ともいう。良寛様からの手紙が一通残る。 | ||
外山茂右衛門 | とやましげえもん | 旧寺泊町の町年寄。寺泊に良い庵があるということで、良寛様を誘う。しかし、木村家に行くことになった。 | ||
外山津多 | とやまつた | 良寛様の外山家に嫁いだ妹「むら」の娘。姪。旧和島村籠田の庄屋、小林正左衛門に嫁ぐ。 | ||
外山文左衛門 |
とやまぶんざえもん |
妹「むら」の子。弥惣右衛門の跡を継ぐ。 | ||
外山弥惣右衛門 | とやまやそうえもん | 良寛様の妹の「むら」が嫁ぐ。旧寺泊町の庄屋。廻船問屋で酒造業を営む。 | ||
な行 | 内藤鐘山 | ないとうしょうざん | 出雲崎の儒者。亀田鵬齋の弟子。鵬齋に良寛様を紹介する。「訪五合庵禅師」の詩を残す。 | |
内藤信敦 | ないとうのぶあつ | 村上藩主。国上山は村上藩の所領であり、信敦が稲刈り時の忙しい時に狩り刈りに国上山に来るというので、良寛様は来ないように和歌を詠み、立て札に書いたという。 | ||
内藤方廬 | ないとうほうろ | 出雲崎の儒者。良寛様に頼まれ、乙子神社の宮額に「乙子大明神」と書く。 | ||
内藤久武 | ないとうひさたけ | 久敬か。旧西山町石地の肝煎。良寛様の書が欲しくて、屏風と墨をわざと玄関に置き、書いてもらう。五合庵を訪れ、歌を唱和する。 | ||
中江杜澂 | なかえとちょう | 京都の画家。良寛様の書に「良寛禅師奇跡」と評する。 | ||
長岡関左衛門 | ながおかせきざえもん | 旧分水町熊の森の資産家。栄五郎ともいう。時々立ち寄る。墓碑銘の文字を書いてもらう。漢詩にも詠まれる。 | ||
中川都良 | なかがわとら | 旧与板町の人。良寛様の父方の親戚。都良が亡くなった時、庭に咲いていた朝顔の和歌を一首詠む。 | ||
中川弥五兵衛 | なかがわよごべい | 旧与板町の人。良寛様の弟の由之が弥五兵衛の屋敷の一角に「松下庵」を結ぶ。庭に無花果がたくさん採れたという。 | ||
中川蘭甫 | なかがわらんぽ | 旧与板町の俳人。名は長太夫。良寛様の従兄弟。良寛様から贈られた和歌が一首残る。 | ||
中川立生 | なかがわりゅうしょう | 医師。良寛様から多くの詩歌を添削してもらう。良寛様の葬式にも出席する。 | ||
中野孝次 | なかのこうじ |
小説家。ドイツ文学者。評論家。「良寛に会う旅」「良寛の呼ぶ聲」を著す。 |
||
中林梧竹 | なかばやしごちく | 明治の書聖といわれる。五合庵木額を書く。 | ||
中原元譲 | なかはらげんじょう | 新潟市赤塚の医師。書や漢詩も書く。元譲宛の書簡に懐素の自叙帖のことが書かれてある。 | ||
◎ |
中村権右衛門 |
なかむらごんえもん |
旧分水町地蔵堂の町年寄。中村家九代目。名は好哉(よしちか)。酒造業を営む。庇護者。良寛様の父親の親戚筋にあたる。妻は「むろ」。 |
|
中村権右衛門 | なかむらごんえもん | 中村家十代目。名は好雄。または雄平。良寛様から一通の手紙を貰う。 | ||
中村旧左衛門 | なかむらきゅうざ えもん |
号は以水。分水町地蔵堂の町年寄。中村家八代目。酒造業を営む。良寛様が狭川塾に通う時、下宿する。妻は「リサ」。 | ||
夏目漱石 | なつめそうせき | 良寛様の書と詩歌を高く評価する。書を大変欲しがる。 | ||
成田伝吉 | なりたでんきち | 三条市の人。小林卯兵衛ともいう。三条八幡神社に良寛詩碑を建立した有志の一人。残っていれば最古の石碑。破片のみあり。 | ||
南波茂左衛門 | なんばしげざえもん | 出雲崎町中山の人。良寛様が西照庵にいた時、味噌や下帯などをもらう。庵を去る時、「法華転」を南波家に置いていく。 | ||
新美南吉 | にいみなんきち | 童話作家。代表作は、「ごんぎつね」。良寛様関係では、「良寛物語 手毬と鉢の子」を著す。 | ||
西郡久吾 | にしごおりきゅうご | 旧制中学の教師。良寛研究家。「北越偉人妙門良寛全伝」を書く。 | ||
如来 | にょらい | 旧寺泊町の石工。乙子神社境内の詩碑を彫る。 | ||
丹羽思亭 | にわしてい | 新発田藩の儒者。足軽の出であるが、藩主健齋公に認められ、江戸に学ぶ。詩、歌、書、画、琴に優れる。晩年「良寛伝」を書く。 | ||
野口七左衛門 |
のぐちしちざえもん |
京屋の主人。尼瀬の名主。橘屋とはライバル関係。 |
||
は行 | 羽賀康夫 | はがやすお | 日本写真家協会会員。良寛様をテーマに写真を撮り続ける。「良寛街道」「良寛に出逢う旅」など。 | |
白隠 | はくいん | 慧鶴(えかく)ともいう。衰退した臨済宗を江戸時代に再興した禅僧。良寛様の好んだ詩文「君看雙眼色 不語似無憂」は、白隠の書『槐安国語』の中にある。 | ||
馬喰家のばあさん | ばくろうけのばあさん | 旧分水町の国上に住むおばあさん。良寛様の衣などを縫ってくれた。何枚か書をかいてもらう。 | ||
坡丈和尚 | はじょうおしょう | 旧分水町、専念寺の和尚。俳諧をたしなむ。字が下手だったので、良寛様より「美醜に心を労してはいけない。無心になって書けば、自ずから風格がそなわる」と教えてもらう。良寛禅師奇話第五十四話に記載あり。 | ||
長谷川洋三 | はせがわようぞう | 早稲田大学名誉教授。ジャーナリスト。経済評論家。良寛研究家。「良寛禅師の真実相」「良寛禅師の悟境と風光」を著す。 | ||
長谷川義明 | はせがわよしあき | 現全国良寛会会長。元新潟市市長。「天上のはるかかなたのみそらより慈悲の大風かぎりなくふく」の歌を詠む。 |
||
馬場又吉 | ばばまたきち | 旧分水町熊の森の人。馬場家の亡くなった子供の位牌に良寛様は勝手に法名を書き込んだという。 | ||
◎ |
原田鵲齋 |
はらだじゃくさい |
医師。狭川塾の親しい学友。良寛様より五歳年下。歌をよく唱和する。 |
|
○ |
原田正貞 |
はらだしょうてい |
鵲齋の子。父と同じく良寛様と親しかった。十七歳の時、山本馬之助と義兄弟の契りを結び、歌をよく唱和する。良寛様からの手紙が九通残る。 |
|
原田勘平 | はらだかんぺい | 良寛研究家。記憶力抜群で良寛辞典とも称される。小学校長を歴任。原田家の養子に入る。 | ||
原田仁左衞門 | はらだじんざえもん | 原田鵲齋の父。旧国上村真木(まぎ)山の庄屋。 | ||
原田政吉 | はらだまさきち | 旧国上村真木山の人。原田家の近くで村の子供たちとよく遊ぶ。大きな榊にぶら下がり、子供たちを喜ばせたという。 | ||
原坦山 | はらたんざん | 明治の仏教哲学者。良寛様を評して「仏教学の奥義を深めしものは空海以後良寛あるのみ」あるいは「道元禅師以来の巨匠なり」と絶賛する。 | ||
早川甚五衛門 | はやかわかんごえもん | 旧和島村島崎の鍛冶職人。法弟の遍澄の父。 | ||
早川樵巴 | はやかわしょうは | 文人。九二と共に晩年の良寛様を訪れる。九二がその時の絵を描き、樵巴も描かれる。 | ||
早川平三郎 | はやかわへいざぶろう | 旧和島村島崎の人。木村家の娘「おかの」が嫁いだ相手。「おかのどの戒語」が知られている。 | ||
林甕雄 | はやしみかお | 群馬県出身。国学者。良寛様が亡くなった後、越後に来て良寛様の歌に感激する。新津の桂家に留まる。「良寛禅師歌集」を著す。「林甕雄」本と呼ばれる。 |
||
○ |
万元上人 |
ばんげんしょうにん |
五合庵を開基した。国上寺の再興に尽力する。 |
|
半僧 | はんぞう | 良寛様へ「海松(みる)」という海藻を贈る。その礼状が一通残る。詳細不明。 | ||
半兵衛 | はんべえ | 酔狂して良寛様に危害を与えたとされる人物。この名を聞くだけで逃げることにしていたという。良寛禅師奇話第十話に記載されている。 | ||
日置黙仙 | ひおきもくせん | 曹洞宗の僧。永平寺貫首。良寛堂の「良寛和尚生誕之地」の碑を書く。建碑は大正15年9月。 | ||
比丘戒全 | びくかいぜん | 岡山・円通寺第二十五世の僧。昭和六年、境内に良寛詩碑を建てる。以来円通寺が良寛様修行の地として知られるようになる。 | ||
◎ |
秀子 |
ひでこ |
良寛様の母親。「おのぶ」ではないかともいわれている。 |
|
鄙一 | ひないち | 寺泊町の盲目の文人。この家を訪れ、歌を詠む。 | ||
日野資朝 | ひのすけとも | 資朝が佐渡に流される時、山本家に泊まり、「忘るなよ程は波路を隔つとも変らず匂へ宿の橘」を詠む。山本家の屋号「橘屋」はこの歌から付けられたといわれている。 | ||
平右衛門 | ひらえもん | 旧和島村小島谷の農夫。雨も降っていないのに、駆けてくる良寛様にその訳を聞くと、「今度夕立にあうと、逃げ場がないからね」といい、家に上がり、「避雨」という詩を書いて見せる。 | ||
平沢彦兵衛 | ひらさわひこべい | 水原代官所代官。文化七年十一月。町民の訴えを受けて、由之に家財取り上げ、所払いの刑罰を出す。 | ||
平田郷陽 | ひらたごうよう | 人間国宝。岡山県倉敷市にある円通寺公園の「童と良寛」の巨大な石碑(高さ2.6M)の原作者。 | ||
平田弥兵衛 | ひらたやへい | 出雲崎の人。良寛様と唱和する。歌も残されている。 | ||
平原治郎兵衛 | ひらはらじろべい | 旧分水町笈ヶ島の豪農。良寛様が花を取る所を見つけ、それをとがめ、絵に五言十二句の詩を書かせた。 | ||
比留間助左衛門 | ひるますけざえもん | 出雲崎代官。名は「正興」。山本由之が敦賀屋を中心とする町民に訴えられたのを擁護したため、町民が水原の奉行所に駆け込み訴訟を行い、それが認められ、比留間は罷免され、由之は所払いとなった。 | ||
広瀬六右衛門 | ひろせろくえもん | 長岡市の呉服商丹後屋。「古手類」「たんごや」「丹後屋」「古手類品々」の看板字を書いてもらう。現在は四枚をあわせて一幅に表装されている。 | ||
藤井留吉 | ふじいとめきち | 石工。良寛石碑の刻者。多くの石碑を手がける。 | ||
藤沢一齋郎 | ふじさわいっさいろう | あるいは、「一齋」か。旧分水町渡部の医師。和歌をたしなむ。良寛様の足の怪我を治療する。 | ||
布施一喜雄 | ふせいきお | 版画家。「良寛禅師奇話」の原文をテーマに、ユニークな解釈の文章と版画で「良寛ものがたり」などを著す。 | ||
兵蔵 | へいぞう | 良寛様からの俳句文が一通残る。「秋風のさはぐ夕となりにけり」。詳細不明。 | ||
平八茶屋 | へいはちちゃや | 旧分水町国上の月見坂あった茶屋。その茶屋によく寄り、落書きをする。それを丸めて捨てたりするので、もったいないということで、集めて取っておいた。 | ||
紅屋治五郎 | べにやじごろう | 加茂市上町で紅脂製造業を営む。良寛様の学友、原田鵲齋が晩年の十年、紅屋で隠居していたといわれる。 | ||
◎ | 遍澄 | へんちょう | 十五歳の時、五合庵を訪れ、五十九歳の良寛様の弟子となる。身の回りの世話などもよくした。富取武右衛門(倉太)に請われて願王閣主となる。俗名を市内という。明治九年九月十三日に亡くなる。良寛禅師奇話第五十八話に記載あり。 | |
星彦右衛門 | ほしひこえもん | 旧寺泊町竹森の住人。帰る時、杖を忘れ、歌をせがまれ一首書くことになる。 | ||
細井平洲 | ほそいへいしゅう | 良寛様の師大森子陽の師。米沢藩儒。良寛様は米沢と鶴岡へ文政4年に旅をしている。 | ||
堀越与兵衛 | ほりこしよへい | 旧岩室村横曽根の人。托鉢の途中に、良寛様は立ち寄り休む。酒樽を持って五合庵を訪れる。 | ||
本寿 | ほんじゅ | 良寛様の妹・むらの子。出家して「日養」となり、能登龍谷寺住職となる。 | ||
本間源左衛門 | ほんまげんざえもん | 旧寺泊町の人。良寛様から詩歌をもらう。 | ||
本間三郎兵衛 | ほんまさぶろべい | 長岡市渡町の人。旅館業を営む。手鞠と引き替えに字を書いてもらう。それで多くの書が残る。 | ||
本間利兵衛 | ほんまりへい | 山本馬之助の妾腹の子。菓子屋を営む。「泰人」ともいう。 | ||
ま行 | まき | まき | 旧与板町・新木家。父以南の母。新木与五右衛門富竹の妻。 | |
○ |
牧江靖齋 |
まきえせいさい |
阿部定珍の第九子。糸魚川の牧江家に養子に入った。良寛詩歌集を出版した。「牧江本」ともいう。 |
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○ | 牧野忠精 | まきのただきよ | 文政二年、良寛様を長岡の寺に招請しようと五合庵(乙子神社か)を訪れるが、果たせず。 | |
○ | 巻菱湖 | まきりょうこ | 旧巻町の出身。江戸末期随一の書家。上州屋の四看板(良寛、亀田、巻、富川)の一つを書く。 | |
正岡子規 | まさおかしき | 良寛様の書を「絶倫なり」と評する。歌には立ち入らず。 | ||
桝澤清 | ますざわきよし | 三条市井栗出身の彫塑家。出雲崎の良寛堂の良寛像、及び三条市立図書館の良寛像の作者。 | ||
○ | 松尾芭蕉 | まつおばしょう | 俳聖。「人をして千古芭蕉翁を仰がしむ」と評する。良寛様の句に「新池や蛙とびこむ音もなし」 という作品がある。 | |
松澤佐五重 | まつざわさごえ | 分水の郷土史家で、大森子陽の研究家。三峰館の位置を特定する。 | ||
松永克男 | まつながかつお | 三条市の八幡神社の最古の良寛碑の一部を神社の片隅で発見する。現在、三条市立図書館内に飾られている。 | ||
松永嘉平 | まつながかへい | 三条市の八幡神社の最古の良寛碑の拓本をとる。大火で碑は壊れたが、拓本に建立の経緯など詳しく記載する。 | ||
松本市壽 | まつもといちじゅ |
四十年間、出版社に勤務。後半の二十年は良寛の研究書を手がける。元全国良寛会常任理事。著書多数。
|
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松山大年 | まつやまだいねん | 旧寺泊町の竹森の医師。狭川塾における学友。大森子陽先生の一子、求古の面倒を見る。 | ||
丸山彦礼 | まるやまげんれい | 旧西川町曽根の医師。若くして亡くなる。良寛様は哀悼歌を一首、両親へ寄せる。 | ||
○ |
みか |
みか |
妹。以南の三女。出雲崎の浄玄寺の曽根智現和尚に嫁ぐ。老後剃髪して妙現尼となる。貞心尼と歌を詠み交わす。 |
|
三津川于当 | みつかわうとう | 俳人。「関清水物語」に、父・以南が入水自殺したのは、脚気の病によるものだと述べる。 | ||
三森九木 | みつもりきゅうぼく | 画家。増田九木ともいう。良寛様が賛をいれた合作の「てまりの図」を描く。分水良寛史料館蔵。 | ||
みね | みね | 佐渡相川山本家。良寛様の母方の祖母。 | ||
峰村哲也 | みねむらてつや | 昭和31年生まれ。昭和61年 東京芸大大学院博士課程終了。長岡市在住。西大畑公園の良寛様の像を制作する。他に「河井継之助像」(河井継之助記念館)制作。 | ||
水上勉 | みなかみつとむ | 小説家。最初、「蓑笠の人」を書き、良寛様の生き方を批判するが、後に「良寛 」を書き、その考えを改める。 | ||
宮栄二 | みやえいじ | 良寛研究家。全国良寛会の設立に関わる。「良寛研究論集」「良寛ーその生涯と書」を著す。 | ||
宮川禄齋 | みやがわろくさい | 文人。画家。良寛様の晩年の肖像画を直接描く。 | ||
宮城音弥 | みやぎおとや | 心理学者。書物や行動を分析し、良寛様を性格異常の分裂病質であると指摘する。反論も多くあった。 | ||
宮柊二 | みやしゅうじ | 歌人。新潟県堀之内町出身。晩年、良寛様の歌に傾倒する。「冬の夜の長きまにまに良寛の詩や白秋の歌に遊びつ」「父の齢に至らざれども良寛の示寂に近し病みつつ我は」などの歌を詠む。 | ||
三宅相馬 | みやけそうま | 村上藩士。三条代官所録事。村上に帰る時に、良寛様より餞別の二首を贈られる。 | ||
妙喜尼 | みょうきに | 南波茂左衞門の妻。夫が亡くなって尼となり、南波家が建てた西照坊に住む。良寛様は何度か妙喜尼を訪れていたと云われる。 | ||
三輪九郎右衛門 | みわくろうえもん | 旧与板町の豪商。屋号は大坂屋。三輪家の第八代権平長行(ながゆき)。良寛様より二通の書簡あり。 | ||
○ | 三輪権平 | みわごんぺい | 旧与板町の豪商。屋号は大坂屋。三輪家の第九代権平長凭(ながより)。良寛様は書物をよく借りる。良寛様からの手紙が八通残る。 | |
◎ |
三輪左市 |
みわさいち |
狭川塾のとても親しい学友。三輪家(大坂屋)出身。「左一」とも書く。五代三輪多仲長旧の三男。佐市喜長(よしなが)ともいう。良寛様からの手紙が三通残る。 |
|
三輪多仲長高 | みわたちゅうながたか | 三輪家の第六代。詳細不明。 | ||
三輪多仲長旧 | みわたちゅうながもと | 三輪家の第五代。この代より良寛様との関係がある。 | ||
三輪多仲長泰 | みわたちゅうながやす | 三輪家の第七代。詳細不明。 | ||
眠竜尼 | みんりゅうに | 貞心尼の師。妹に心竜尼がいる。 | ||
棟方志功 | むなかたしこう | 日本を代表する版画家。良寛様を題材にした「和上執毫図」を描く。良寛記念館蔵。 | ||
○ |
むら |
むら |
妹。以南の長女。外山弥惣右衛門に嫁ぐ。二子をもうける。 |
|
村上三島 | むらかみさんとう | 本名村上正一。文化勲章受章。現代書道の巨匠といわれる。良寛の里に良寛歌碑を建てる。筆者は本人。 | ||
むらまつ屋 | むらまつや | 酒造業を営む。三浦屋幸助と共に乙子草庵を訪ねる。三浦屋の向かいに店があったらしい。三条の人。 | ||
村山半山 | むらやまはんざん | 半牧の養子。義父を助け、「僧良寛歌集」の刊行を手伝う。 | ||
村山半牧 | むらやまはんぼく | 維新の勤王家。画家。明治十一年「僧良寛歌集」を刊行する。「半牧本」ともいう。 | ||
むろ | むろ | 九代目中村権右衛門好哉の妻。 | ||
木了 | もくりょう | 佐渡の石工。良寛様が大切にしていた石地蔵の制作者。 | ||
元井達夫 | もといたつお | 長岡在住の彫刻家。元高校教員。右手に杖を持ち、左手にすみれの花を持った長岡駅良寛像の制作者。 | ||
本宮権左衞門 | もとみやごんざえもん | 燕市小池の俳人。句会を開き、良寛様も時折参加する。良寛様使用の茶道具が残っている。 | ||
本宮伴六 | もとみやばんろく | 燕市八王子の渡し場の近くに住む。良寛様は時折立ち寄り、昼食を食べる。 | ||
森山老 | もりやまろう | 良寛様からの手紙が一通残る。内容は荻生徂来の書の鑑定結果である。詳細不明。 | ||
や行 | 柳本雄司 | やぎもとゆうじ | 新潟良寛会会長。良寛関係の出版社で知られる考古堂の会長。 | |
ヤコブ・フッシャー | ヤコブ・フッシャー | ドイツ人。昭和十二年、英文で「蓮の露」を出版。外国人が書いた最初の良寛研究書。 | ||
矢代静一 | やしろせいいち | 劇作家。脚本家。「良寛異聞」などを著す。 | ||
やす | やす | 良寛様の弟、由之の妻。 | ||
八助 | やすけ | 江戸の人。「非人八助」という詩がある。「苦しい哉 両国長崎の下」という内容からして、水死したらしい。 | ||
○ |
安田靫彦 |
やすだゆきひこ |
日本画家。文化勲章受章。良寛研究家。良寛堂を設計する。 |
|
八十吉 | やそきち | 燕市長辰(長崎)の人。良寛様からの手紙が一通残る。詳細不明。 | ||
八十八 | やそはち | 島崎の木村家の裏手に住んでいた。祭りの献燈の字を書いてやる。 | ||
山賀覚兵衛 | やまがかくべい | 旧巻町松野尾の飴屋。「良寛様の字は難しくて読めない」といって、「一二三」「いろは」を書いてもらう。 | ||
山賀誠 | やまがまこと | 山賀家の現在の当主。「一二三」「いろは」を管理している。 | ||
山岸楽斎 | やまぎしらくさい | 旧岩室村横曽根の医師。詩を通じて親しかった。良寛様の歌が残る。良寛様の詩に曲を付け、唐琴で歌う。 | ||
山崎良平 | やまざきりょうへい | 旧制中学校長歴任。東大卒。相馬御風に良寛研究を勧める。 |
||
山崎六右衛門 | やまざきろくえもん | 旧寺泊町入軽井の庄屋。濁り酒を良寛様に贈り、礼状に数字を織り込んだ和歌二首をもらう。入軽ゐ六右衛門ともいう。 | ||
山田寒山 | やまだかんざん | 詩、書、絵など多芸の人。九二の書いた「島崎草庵対面の図」を所有していた。 | ||
山田権左衛門 | やまだごんざえもん | 旧三島町七日市の庄屋。五代権左衛門修富(ながよし)。七彦(しちげん)ともいう。娘の「ゆう」が甥の馬之介に嫁ぐ。良寛様から五通の手紙をもらう。懐素の「自叙帖」を良寛様に貸せる。 | ||
山田重記 | やまだしげき | 山田杜皐の父。山田家第八代。歌人。良寛様の父「以南」のいとこである。 | ||
山田静里 |
やまだせいり |
柏崎市の名家。菜種商。歌人。貞心尼の庇護者。 |
||
山田善平 | やまだぜんべい | 旧和島村荒巻の庄屋。島崎から与板に行く道筋にあり、ここで祝い事があった時ご馳走になる。しかし、雑炊がいいといって、他のご馳走には手を出さなかったという。 | ||
◎ |
山田杜皐 |
やまだとこう |
旧与板町の町年寄。酒造業を営む。山田家第九代。俳句や絵画に優れ、親友の一人。良寛様から手紙を十三通もらう。 |
|
山田杢左衞門重富 | やまだもくざえもんしげとみ | 与板町山田家の人であり、維馨(経)尼(おきし)の元夫。おきしは、死別して尼となる。 | ||
◎ |
山本以南 |
やまもといなん |
父親。俳人。北越蕉風中興の祖といわれる。新之助、伊織ともいう。 |
|
○ |
山本馬之助 |
やまもとうまのすけ |
由之の子。甥。泰樹(やすき)、左門ともいう。書の達人。井鼻村の名主となる。父由之は家財没収の処分を受けたが、田畑や家屋敷はそのまま残り、馬之助が引き継ぐ。良寛様からの手紙が十通残る。 |
|
山本左門良胤 | やまもとさもんよしたね | 良寛様の曾祖父。橘家中興の祖。加茂の中沢家の平治郎が養子として入り、左門良胤と名のる。 | ||
山本庄兵衛 | やまもとしょうべい | 良寛様の母親の父。相川橘屋五代目。 | ||
山本新左衛門 |
やまもとしんざえもん |
出雲崎町の名主。以南と秀子の義理の父親。屋号は橘屋。子がなかったので、養子を迎える。 |
||
山本鉄之助 | やまもとてつのすけ | 山本由之から数えて五代目の山本家当主。橘屋屋敷跡地に「良寛寺建立」を考え、佐藤耐雪翁に相談する。紆余曲折があり、「良寛堂」が建設される。 | ||
山本仁左衞門 | やまもとにざえもん | 旧巻町松野尾の人。時折立ち寄り、泊まることもあった。 | ||
○ |
山本泰世 |
やまもとやすよ |
馬之助の子。新左衛門ともいう。書の達人であり、良寛様の墓碑の揮毫者。 |
|
◎ |
山本由之 |
やまもとゆうし |
「よしゆき」ともいう。最も親しいすぐ下の弟。歌人。訴訟に負けて家財没収の処分を受ける。墓は木村家の墓地に良寛様と一緒に並んでいる。「無花果苑由之」ともいう。良寛様からの手紙が十六通残る。 |
|
○ |
山本宥澄 |
やまもとゆうちょう |
良寛様の弟。以南の三男。出雲崎町の円明院(山本家の菩提寺)住職。 |
|
山本良一 | やまもとりょういち | 良寛様の弟・由之の直系子孫。神奈川県在住。「由之老を想う」の随想を書く。山本家の代表として良寛様に関わる式典などに参加する。 | ||
柳下元左衛門 | やなぎしたもとざえもん | 寺泊町の町年寄。歌人。良寛様はここでよく昼食をいただく。 | ||
ゆり | ゆり | 「孝婦ゆり」ともいう。大工作太夫の妻ゆりが中風の姑に孝行をつくし、幕府より表彰される。良寛様はそれについて詩を詠む。 | ||
庸右衛門 | ようえもん | 旧与板町の人。良寛様からの手紙が二通残る。詳細不明。 | ||
よし | よし | 歓。旧白根市茨曽根の組頭関根・関根小左衛門の娘。良寛様と結婚をしたと伝えられる。 | ||
義成和尚 | よしなりおしょう | 旧寺泊町夏戸の本光寺住職。「金証丸」という胃腸薬を良寛様に与えている。 | ||
吉野源右衛門 | よしのげんえもん | 旧寺泊町吉村の豪農。良寛様のために新しい庵を建てて招きたいと考え、小林一枝と共に良寛様に申し出る。「新しい庵を建てて住むのは断りたいが、源右衛門の近くへ住むのは嫌ではない」と答える。 | ||
○ | 吉野秀雄 | よしのひでお | 歌人。会津八一の弟子。「良寛」「良寛歌集」を書く。 | |
吉本隆明 | よしもとたかあき | 思想家。評論「良寛」を書く。 | ||
米沢屋宇平治 | よねざわやうへいじ | 旧小須戸町の豪農。小須戸では馬市が開かれ、良寛様はよく見学する。「金は望み次第だすから」といって強引に書をお願いする。仕方なく良寛様は、「迷惑」と書いて逃げ去る。 | ||
ら行 | ○ | 蘭谷万秀 | らんこくばんしゅう | 出雲崎町の光照寺の玄乗破了の前住職。幼少の良寛様に習字などを教える。 |
理空童子 | りくうどうじ | 良寛様の弟・由之と妹・たかの間にいたとされる弟。夭折する。幼名は富蔵らしい。山本家菩提樹の円明院過去帳に記載されている。 | ||
リサ | りさ | 旧分水町地蔵堂の町年寄、八代目・中村旧左衛門(号・以水)の妻。富取武左衛門の娘。良寛様が狭川塾に通うために中村家に下宿していた頃、弟のように面倒を見る。 | ||
履善和尚 | りぜんおしょう。 | 旧分水町の熊の森の勝誓寺第十一代住職。良寛様の妹たかの子、久未の子。 | ||
李白 | りはく | 唐の詩人。酒を好み、詩は豪放で、詩仙とよばれる。詩集「李太白集」を著す。良寛様の詩に影響を与える。 | ||
○ | 髑S和尚 | りゅうぜんおしょう | 三条市・宝塔院の住職。国上寺住職義苗の弟子。五合庵時代よりの付き合いがある。三条に出かけるとよく立ち寄る。三条大地震の見舞状をもらう。 | |
良寛 | りょうかん | 禅僧。詩人。歌人。書聖。山本以南の長男。宝暦八年生まれ。幼名は栄蔵。元服して文孝。曹洞宗・円通寺の国仙の元で修行する。天保二年一月六日、七十四歳で示寂。墓は隆泉寺にある。 | ||
良高禅師 | りょうこうぜんじ | コ翁良高。岡山県円通寺を開き、のち岡山県西来寺を復興する。よって「西来派」と呼ばれ、黄檗宗(おうばくしゅう)にも関係したことから、曹洞宗に黄檗宗の宗風が入り、国仙和尚も良寛もその影響を受ける。 | ||
良恕上人 | りょうじょしょうにん | 旧寺泊町の照明寺の第十三世和尚。良寛様と親しく、この時代に境内にある密蔵院に三度仮住まいする。 | ||
良長僧都 |
りょうちょうそうず |
旧分水町の国上寺の住職。万元上人を迎え入れて、五合庵をつくる。日に五合の米をおくる。 |
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涌井金吾 | わくいきんご | 旧国上村の庄屋。唯左衛門ともいう。乙子神社の宮額の裏に名前が記されている。良寛様が内藤方廬に宮額の字をかいてくれるよう要請した。 | ||
渡辺常八 | わたなべつねはち | 出雲崎町井鼻の北口にあった「とうじ茶屋」の主人。良寛様に歌を二首、扇に書いてもらう。 | ||
わ行 | 渡辺秀英 | わたなべひでえい | 良寛研究家。著作多数。書家。琴舟道人ともいう。良寛様だけでなく、弟の由之研究家。 |