11月下旬の頃の出来事である。私はぶらりとドライブをかねて五合庵を訪れた。まだ雪は降らず、暖かい冬の日差しがさしている午後である。 国上寺の駐車場に人影はほとんどなく、国上寺から五合庵におりていく途中にも誰にも出会わなかった。 五合庵にもだれもいないと最初思ったが、万元(ばんげん)上人のお墓の辺りから1人の、とてもみすぼらしい茶色のよれよれのコートを着て、農協関係の古ぼけた帽子を被り、無精ひげを生やした老人がふらりと現れ出た。 突然のことで少し驚いたが、 「あんたは、良寛好きかね?」 と私に尋ねるのである。 「ええ、好きですよ・・・」 そう答えると、老人は一方的に良寛のことを説明しはじめた。 良寛のことについて多少の知識は持っていたが、私の知らないことまで実によく知っており、感心した。 良寛と親しかった女性は、貞心尼、維馨尼、およしの三人だけだと思っていたら、もう1人親しい女性がいたのだそうである。初耳である。それ以外にもいろいろなことを詳しく説明してくれた。 「私も良寛様のことについてはそれなりに知っている方ですが、どうしてそんな詳しいことまで、知っているんですか?」 と尋ねると、 「まあ、わしも長く研究してるんでね。・・・所で、こんなものはいらんかね」 そう言うと一枚の写真を懐から取り出し、私に示した。 「これは、だれの写真ですか?」 「えへへ、良寛さん・・・ですよ」 「そんなことはないでしょう。あの当時カメラがある筈ないでしょう」 そう答えると、老人はニヤニヤしながら、 「いやいや、どうも良寛さんの親戚筋の人らしいんですがね・・・よく分からんのじゃが・・・」 「本当かいな? いやいや・・・さて・・・」 私は良寛好きである。偽物の書でもほしいと思うことがある。しかし、明らかに良寛ではない。いやまてよ。親戚筋ならあり得ることではないか。写真を見ると何となく良寛のような気もしてくる。似ている親戚筋の方ということで理解すれば可笑しいことではないであろう。 「まあ、良寛に似た親戚筋の方のお写真ということでいただきましょう。さて、おいくらですか?」 「一枚八千円では、どうかいのう」 と、やや遠慮がちにいうのである。 少し高いとは思ったが、ボーナスを貰ったばかりなので、懐はそれなりに暖かい。 「では、戴きましょう」 財布から一万円取り出し手渡した。 「お釣りはないがのう・・・」 「いやまあ、説明料も含めてということですよ」 「・・・そうかいのう。それじゃあ遠慮なく・・・」 そういうと老人は二枚の写真を懐に仕舞い込み、それから一万円札を4つに折りたたんでよれよれのズボンのポケットにそのまま突っこんだ。 「実はまだあるんじゃが・・・」 「あるって?」 「良寛様の、いや親戚筋の写真だがのう・・・」 偽物は一枚あればいいとその時は思ったので、 「いやまあ、今度にしますよ」 「そうかいのう・・・」 その場はていねいに挨拶をして別れた。みすぼらしい姿の老人も何度も頭を下げ、礼を述べていた。だが駐車場に向かって暫く歩いている内にもう一つ聞いてみたいことがふと浮かび、小走りに五合庵に戻った。その間は2、3分程しか経っていなかったと思う。しかし、そこには既に誰もいなかった。五合庵の周囲をそこら中探しまわったが、老人は遂に見つからなかった。 私は諦め、五合庵の縁側に腰掛け、五合庵の庭をしばらく眺めていた。庭には木枯らしを受けて四五枚の枯葉が転がっていた。 たくほどはかぜがもてくるおちばかな 良寛 はて、この写真はあのみすぼらしい老人ではなかったであろうか。写真をしみじみと眺めながらそんな風にも感じる。偽物であっても他の写真も手に入れておくべきではなかったかという後悔の念が少しずつ湧いてきた。 そんなことを考えながらふと写真の裏を見た。すると「寛政三年から寛政八年の諸国日記」と筆で書かれてあった。良寛風の達筆の書体である。良寛が国上寺を出て諸国行脚に出かけた時期である。この頃のことはほとんど知られていない。本当にそんな日記が存在するのであろうか。 この謎を突き止めるためにも、もう一度あの老人に会わなければならない。 だが、その機会は意外にも早く訪れた。そのことはまたこの次に記載したい。 2010.6.12 |