22.10.30現在 63ヶ所
寺院名 | 読み方 | 内 容 説 明 | |
ア行 | |||
石井神社 | いしいじんじゃ | 元々は「いわい神社」というようであるが、地元の多くの人は「いしい神社」といっている。出雲崎町石井町の丘の上にあり、出雲大神を祭る。海の守り神社として崇められている。橘家・山本家がこの神社の神官を務めており、子供の頃、良寛様はここの境内で遊んだりしたものと思われる。 | |
宇奈具志神社 | うなぐしじんじゃ | 出田(いずるた)の宮ともいい、旧和島村島崎の「はちすば通り」にある。良寛様の歌碑と詩碑があり、「み林はいづくにあれど越路なる三島の里の出田の宮」と和歌を詠む。 | |
永安寺 | えいあんじ | 旧白根市茨曽根にある曹洞宗のお寺。古岸大舟和尚は安永七年(1777年)から天明七(1787年)年まで十一年間、在住したが、良寛様の道友の有願和尚は大舟和尚のもとで得度する。また良寛様の学問の先生の大森子陽も有願和尚と共に大舟和尚から学んでいる。 | |
永了寺 | えいりょうじ | 旧分水町新堀にある浄土真宗のお寺。良寛様がこの寺に立ち寄った時、「霞立つ永き春日は色くはし 桜の花の空に散りつつ」の歌を詠む。 | |
円通寺 | えんつうじ | 岡山県倉敷市玉島にある曹洞宗のお寺。行基の創建とされる。良寛様は、二十二歳から三十四歳まで修行する。大忍国仙から「印可の偈」を受ける。 | |
円明寺 | えんみょうじ | 出雲崎町住吉町にある真言宗のお寺。橘屋山本家の菩提寺であり、良寛様の二番目の弟の宥澄がこの寺の第十世住職となる。しかし、寛政十二年一月五日(1800年)に三十一歳で亡くなる。 | |
乙子神社 | おとこじんじゃ | 旧分水町国上の国上山ろくにある神社であり、弥彦神社の末社にあたる。社殿の直ぐ脇に草庵があり、良寛様は、文化十三年から文政九年までの約十年間、ここに住む。文学的には最も充実した時期であった。 | |
カ行 | |||
観照寺 | かんしょうじ | 旧分水町牧ヶ花にあった真言宗のお寺。現在は寺もなく空き地となっている。解良家一門の墓がある。良寛様は一時期仮住まいしたことがあると良寛禅師奇話五十三段目に記載あり。 | |
願生寺 | がんしょうじ | 旧吉田町法花堂にあるお寺。住職の景山和尚と親しく、良寛様の詩に、この寺を詠んだものがる。平成10年に、この詩の良寛詩碑が門前に建立される。 | |
願王閣 | がんのうかく | 旧分水町地蔵堂にあり、大庄屋の富取家が建立する。良寛様の法弟である遍澄は、文政九年より、願王閣主となり、その隣の至誠庵で塾を開き、付近の子弟の教育にあたった。願王閣の境内に遍澄の歌碑もある。 「とがまもりてかりはらふべきひともなしむぐらしげれるしきしまのみち」 遍澄 |
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観音院 | かんのんいん | 新発田市長者館(旧紫雲寺町)にある寺院であり、大而(だいに)宗龍が一時期住職をしていた。良寛様は、宗龍と一生に三度相見しており、一回目が良寛出家前の安政七年(1778年)・二十一歳の時、二回目が天明五年(1785年)・二十八歳、三回目が天明八年(1788年)・三十一歳の時といわれている。 | |
桐原石部神社 | きりはらいしべじんじゃ | 旧和島村上桐にある神社。階段の下に加藤僖一先生が揮毫した良寛様の歌碑が建っている。「この宮のみ坂に見れば藤なみの花のさかりになりにけるかも」。当時、藤の老樹があり名所として知られていたと伝えられる。 | |
熊野神社 | くまのじんじゃ | 旧和島村の西のはずれに椿の森があり、その中にある神社。大きな椿がたくさん生い茂っている。良寛様の歌碑が境内にあり、「籠田より村田の森を見渡せば幾世経ぬらむ神さびにけり」村田の森が椿の森といわれている。 | |
光照寺 | こうしょうじ | 出雲崎町尼瀬にある曹洞宗のお寺。良寛様が十八歳の時に、この寺で剃髪したといわれている。右の石碑「良寛禅師剃髪之寺」は、相馬御風の筆によるもの。ここでは正式な出家ではなく、正式には二十二歳の時、国仙和尚の弟子になった時とされている。四年間、光照寺で修行したと伝えられている。なお、剃髪時の直接の師匠は、光照寺住職玄乗破了和尚。「光照寺出家の歌碑」が境内に建っている。それには岡山に旅立つ時の良寛様の心情が書かれている。 | |
国上寺 | こくじょうじ | 旧分水町国上山の中腹にあるお寺。真言宗の寺院であり、山号を雲高山。709年の創建であり、泰澄法師の開基といわれている。五合庵を管理している。 | |
サ行 | |||
西生寺 | さいしょうじ | 寺旧寺泊町野積にあるお寺。真言宗であり、弘智法印の即身仏がある。良寛様は、享和三年(1803年)四十六歳の時、一時ここに仮住する。良寛様の詩歌も残されている。 | |
三条八幡宮 | さんじょうはちまんぐう | 三条市八幡小路にあり、良寛様の詩碑と歌碑が建っている。また「僧良寛歌集」を明治十二年に出版した村山半牧(はんぼく)の石碑も見られる。 | |
直指院 | じきしいん | 糸魚川市中央区にあるお寺。相馬御風の書による良寛様の詩碑がある。古里に帰る途中、良寛様は糸魚川で病気になる。 | |
種月寺 | しゅげつじ | 新潟市西蒲区(旧岩室村)石瀬にある曹洞宗の寺。良寛様の友人の亀田鵬齋(ぼうさい)の書碑が残っている。亀田鵬齋は書の大家であり、江戸の有名な儒学者である。 | |
正円寺 | しょうえんじ | 旧小出町にあるお寺。貞心尼の元夫で医者の関長温のお墓が発見される。 | |
浄玄寺 | じょうげんじ | 出雲崎町羽黒町にある浄土真宗のお寺。住職の曽根智現に良寛様の末の妹の「みか」が嫁ぐ。みかは、妙現尼となり76歳で亡くなる。 | |
照明寺 | しょうみょうじ | 旧寺泊町片町にある真言宗のお寺。良寛様は、この寺の良恕(りょうじょ)上人と親交があり、三度(四十五歳、七十歳、七十二歳の頃)この寺の密蔵院に住む。詩歌碑も三つ建てられている。 | |
定明寺 | じょうみょうじ | 定明寺は三条市東裏館にあるお寺。三条の文化人で、良寛様と親しかった三浦屋(遠藤)幸助の墓がある。 | |
浄念寺 | じょうねんじ | 新発田市五十公野にあるお寺。良寛様お手植えと伝えられる菩提樹がある。 | |
常福寺 | じょうふくじ | 常福寺は柏崎市東本町一丁目にあるお寺。良寛様の弟子の佐藤遍澄の描いた「良寛画像」が残っている。 | |
真光寺 | しんこうじ | 柏崎市広小路にあったお寺。この寺の傍らに「不求庵」があり、貞心尼が住む。 | |
神明神社 | しんめいじんじゃ | 三条市一ノ木戸にある神社。境内には良寛様の詩碑が建っている。「良寛様が三条へ托鉢に来ると、子どもたちがすぐに集まり、手鞠をついて楽しむ。」という主旨の詩である。 | |
端光寺 | ずいこうじ | 新潟市西堀通りにあるお寺。そこに会津八一の墓がある。八一は、書家であり歌人あり、良寛様の歌や書を正岡子規に紹介したことでも知られている。また、「良寛の位牌」「貞心尼の位牌」「良寛像」が安置されている。 | |
菅原神社 | すがわらじんじゃ | 旧分水町渡部にある神社。良寛様の庇護者である中村家が近くにある。菅原道真公を祭っている。良寛様の歌碑がのぼり口の脇にある。「天神のかみのみ坂ゆ見はたせばみ雪ふりけり巌橿(いつかし)が上(へ)に」 | |
須磨寺 | すまでら | 神戸市須磨区須磨寺町にある真言宗須磨寺派の大本山。良寛様は三十九歳の時にここを訪れて、「須磨紀行」を著す。 | |
諏訪神社 | すわじんじゃ | 出雲崎尼瀬の光照寺の左隣にある神社。ここの出身に蘭谷万秀がおり、後に光照寺の住職となる。良寛様は万秀から習字などを習っていたと伝えられる。 | |
諏訪神社 | すわじんじゃ | 旧寺泊町蛇塚にある神社。大河津分水の近くにある。良寛様の歌に「今朝の明けわがとく行けば蛇塚のお諏訪の森は色づきにけり」がある。 | |
清伝寺 | せいでんじ | 旧吉田町溝古新の浄土真宗仏光寺派のお寺。良寛禅師奇話に出てくる観国が和尚であった。 | |
善光寺 | ぜんこうじ | 長野県元善町にある。山号は定額山。六四二年に本多善光が創建したのが始まりとされる。良寛様は、「再び善光寺に遊ぶ」の詩歌を残す。 | |
仙城院 | せんじょういん | 旧巻町(新潟市西蒲区)松野尾にあるお寺。良寛様は何度か訪れ、漢詩を作る。漢詩と和歌の石碑がある。 | |
善勝寺 | ぜんしょうじ | 出雲崎町尼瀬の光照寺の隣にあるお寺。その境内に孝婦ゆりの石碑が建っている。中風の姑によく孝行したということで、幕府から表彰される。良寛様はその碑を見て、「孝婦の碑を読む」の詩をつくる。 | |
千仏寺 | せんぶつじ | 旧巻町四区にあるお寺。境内に良寛様が楷書で書かいた十大願の碑がある。十大願とは、観世音菩薩の十の願いのことであり、すべての人々を救おうとすることがその中心となっている。 | |
双善寺 | そうぜんじ | 出雲崎町大字川西にある曹洞宗のお寺。平成十四年に大忍魯仙を偲ぶ詩碑が建てられる。魯仙和尚は出雲崎町尼瀬出身であり、七歳でこの寺で剃髪する。また「無礙集」を出版する。この中に「良寛道人の偈を読む」「良寛道人を懐う」がある。 | |
双璧寺 | そうへきじ | 加茂市若宮町にある曹洞宗のお寺。良寛様と親しかった浦屋(遠藤)幸助は天保五年に亡くなり、三条の定明寺(じょうみょうじ)に葬られる。しかし、その後子孫が加茂に移り、そのお墓も加茂の双璧寺(そうへきじ)に移す。さらに、明治末になって、新潟に移ることになり、お墓は無縁仏となった。それで、このまま埋もれさせるには偲びないということで、双璧寺と定明寺、遠藤家の話し合いの結果、定明寺に戻すことになった。 | |
タ行 | |||
大乗寺 | だいじょうじ | 佐渡相川の橘屋山本家の歴代墓碑があるお寺。相川橘屋は出雲崎橘屋の分家。 | |
大蓮寺 | だいれんじ | 旧分水町中島にある浄土真宗のお寺。この寺から良寛様に手鞠が贈られ、お礼の手紙が残っている。また、突然の驟雨にあい、一夜の宿をお願いしたときの歌も残っている。「雨霰ひぢにひぢぬる旅衣手ごとに取りて干しあへるかも」 | |
長楽寺 | ちょうらくじ | 旧吉田町の粟生津にあるお寺。そこに鈴木文台の墓がある。文台は長善館をつくり、多くの人材を世に送り出す。良寛様は、文台の利発さを知り、「この子は将来きっと大成するだろう」と賞賛する。文台も良寛様についてのすぐれた論文を多く書き残している。 | |
洞雲寺 | とううんじ | 柏崎市常磐台にあるお寺。貞心尼の墓がある。また、墓地の入り口には、良寛様と貞心尼唱和の歌碑が建っている。 | |
コ昌寺 | とくしょうじ | 旧与板町にある曹洞宗のお寺。良寛様の親友である佐市と維馨尼(いきょうに)の墓がある。二人とも三輪家の出である。良寛様が三条地震の際に詠んだ詩歌碑も境内に建っている。 | |
ナ行 | |||
ハ行 | |||
繁慶寺 | はんけいじ | 旧和島村根小屋にあるお寺。その寺の裏山に良寛様の像が建っている。像は髏寺と同じもの。彫刻家は滝川昆堂。 | |
日吉神社 | ひよしじんじゃ | 三条市元町10-22にある神社。境内には良寛様の句碑が建てられている。 「焚くほどは風がもてくる落葉かな |
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普談寺 | ふだんじ | 旧新津市朝日にあるお寺。「天上大風」の石碑が建っている。越後三十三観音霊場の第三十番札所となっている。 | |
法円寺 | ほうえんじ | 弥彦村矢作(やはぎ)にあるお寺。良寛様の句碑と歌碑が1つずつ見られる。 「よのなかはなににたとへむいやひこにたゆたふくもの風のまにまに」 「たくほどはかぜがもてくるおちばかな」 |
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宝光院 | ほうこういん | 真言宗の寺であり、西蒲原郡弥彦村弥彦にあり、弥彦競輪場のすぐ隣。良寛歌碑と太愚良寛上人之碑の二つが建てられている。和歌は、「みづとりのかものはのいろのあをやまの こぬれさらずてなくほとどきす」と書かれてあり、太愚良寛上人之碑の碑は、入り口近くにある。 | |
宝珠院 | ほうしゅいん | 国上の五合庵のすぐ下にある寺院。良寛様は隣の本覚院とともにお世話になった。 | |
宝塔院 | ほうとういん | 三条市東裏館一の六にある真言宗の寺院。この寺の住職の髑S和尚とは特に親しく、この寺に何ヶ月も滞在することもある。三条地震の亡霊塔が建てられている。また良寛様が出した地震の見舞状の石碑も一緒にある。 | |
法福寺 | ほうふくじ | 旧寺泊町にあるお寺。良寛様の妹・むら(以南の長女)の墓がある。むらは、寺泊町の廻船問屋、外山弥惣右衛門に嫁ぎ、良寛様が国上寺や寺泊に住んでいた時、身の回りの世話をする。 | |
本覚院 | ほんがくいん | 五合庵のすぐ下辺りにある真言宗のお寺。良寛様は一時期、ここに住んでいたと伝えられる。親しい友人が集まって歌を詠みあったり、酒宴を開いたりする。良寛様の歌碑も建立されている。 | |
本光寺 | ほんこうじ | 旧寺泊町夏戸にあるお寺。「ことしより君がよはひをよみてみむ 松のちとせをありかずにして」の歌碑が境内にある。この歌はこの寺の住職義成にあてた書簡に書かれてあり、良寛様七十一歳の頃の歌。なお、胃腸薬「金証丸」を製造販売しており、良寛様も利用する。 | |
マ行 | |||
万因寺 | まんいんじ | 出雲崎町尼瀬にあるお寺。光照寺の階段の左側にある。お齋に招かれ、「鴨はわれを見捨てて去りにけり豆腐に羽根のなきぞうれしき」の歌を詠んだとされる。 | |
万福寺 | まんぷくじ | 旧巻町仁箇にある曹洞宗のお寺。境内には「いろは」「一二三」の対になった良寛碑があり、また「良寛和尚遺墨碑」も脇に建っている。遺墨碑には、「松の尾の葉ひろのつばき椿見にいつか行かなむそのつばきみに」の歌と建碑の由来が書かかれている。 | |
明元寺 | みょうがんじ | 旧与板町にあるお寺。境内に蓮華の台座の上に卵形の石塔が立てられあり、それに良寛様の書「一蓮塔」の文字が書かれている。一連は「一蓮託生」の略語。 | |
妙コ寺 | みょうとくじ | 旧和島村島崎にあるお寺。良寛様のお弟子さんで、乙子神社時代、木村家草庵時代の良寛様の面倒をみた遍澄さんのお墓がある。良寛様の臨終にも立ち会い、良寛様は、最後、遍澄さんの膝の上に頭をのせ、示寂したと伝えられている。 | |
ヤ行 | |||
弥彦神社 | やひこじんじゃ | 越後一宮であり、西蒲原郡弥彦村にある。古くには万葉集にも歌われている。良寛様は、弥彦神社を詠んだ詩歌をいくつか残している。神社のご神木は椎の大木であり、この木に関する歌も残っている。また絵馬殿にも歌の書かれた木版が残されている。 | |
与板八幡宮 | よいたはちまんぐう | 旧与板町にあり、都野神社ともいう。詩碑が境内の奥に建てられている。それには、子陽塾で同級だった親友の三輪左市のことが記されている。 | |
ラ行 | |||
龍海院 | りゅうかいいん | 前橋市にある曹洞宗のお寺。蔵雲和尚が慶応三年に「良寛道人遺稿」を出版する。 | |
隆泉寺 | りゅうせんじ | 新潟県旧和島村島崎にあるお寺。良寛様と弟・由之の二人のお墓が並んである。良寛様が晩年お世話になった木村家のお墓も隣にある。 | |
林正寺 | りんしょうじ | 旧白根市根岸に浄土真宗のお寺。その境内に良寛地蔵が建てられている。二段の台座の上には、「良寛地蔵、良寛翁百五十年きねん」下には、良寛様の歌、「すみぞめのわが衣手のゆたならばまどしき民を覆はましものを」と刻まれている。 | |
蓮正寺 | れんしょうじ | 旧与板町にあるお寺。良寛様の書いた法爾(ほうに)と自然(じねん)の碑がある。山本以南の妹「スヨ」が嫁ぐ。 |