良寛研究の3タイプ
                                                  小山 宗太郎


 良寛研究をする人は、大きく分けて、その生き方や人間性を研究する人と良寛様の歴史や事実、それに付随する人間関係を調べる人、良寛様が残した書や文学を研究する人の3タイプに分類されるのである。
 まず、最初の、生き方や人間性を研究するタイプはとても多く、良寛様そのものに深い感銘を受けているのである。どちらかといえば研究者というより敬慕者である。このタイプの人たちは良寛様がいつ生まれたかや親友は誰か、兄弟は何人いるかなどの具体的な事実にはあまり興味がなく、筍の話や凧の話、舟の話、鰈になる話などのエピソードにひかれるのである。現代人が真似ることのできない飄飄とした生き方が大好きなのである。であるから、少しぐらい話に嘘が混じっていても気にしないのである。その嘘を含めて良寛様の全てが好きなのである。良寛様ファンである。このタイプが一番多いと思われる。
 さて、次は良寛様の歴史や事実を好むタイプである。この人たちが最も研究者らしいのである。和歌や俳句、漢詩などに他の人の作品が混じっていようものなら、徹底的に排除しようとし、事実を突きつめていくのである。母親が誰であるかを調べることに熱中したり、何処で誰といつ頃出逢ったかなどを徹底的に調べたりして、事実を見付けて喜ぶのである。事実でなければ価値がないと思いこみ、最初のタイプをどちらかといえば嫌っており、大学の研究者などに多いのである。
 このタイプの研究者のある方が「この良寛研究の分野の人たちは、他の分野に比べ、あいまいでいいかげんにしていることが多く、実証にあまり価値を置いていない」といって嘆いていた。あまり厳しく追及すると「まあまあ、そこまではっきりしなくても・・・」となるのである。
 3番目の書や文学を愛好する人たちは、書道の先生や詩歌(和歌、漢詩、俳句) の研究者、愛好者が多いのである。書道の先生は良寛様の書そのものに感銘を受けた人たちであり、書を真似て書いたりして楽しんでいるのである。私は短歌や俳句が好きであったので、この分野から良寛様に興味をもったのである。
 さて、3つ のタイプに分類したが、きっちり分類できる訳ではなく、1番目と3番目の要素をもっている人もいるし、2番目と3番目の混在型という人もいるのである。私は、2番目と3番目の混在型である。良寛様の文学的作品に偽物が混じっているのはとても良くないと思っている。だが書の偽物は嫌いでも和歌や俳句には寛容な方が多いのである。書の偽物は金銭や詐欺が絡むのでそうなのであろうが、偽物の和歌や俳句があっても誰も困らないという発想もあるようである。「散る桜残る桜も散る桜」という名句が良寛様の句として多くの人たちに知られている。死ぬ間際に詠んだとされているが、まったく根拠がないのである。ある誰かがつくった名句であり、それを良寛様の句として差し込んだのである。昔のことなので具体的に誰々とは言わないが、多くの実証的研究者は偽物としている。だが大きな声では指摘しないのである。ふんわりと述べるのみである。「まあまあ」が良寛研究のキイワードだからである。             

2011.7.30