ぼおっとする良寛様

                                                           小山 宗太郎

 良寛様は書聖であると同時に、詩人である。真の詩人は詩歌に集中すると周囲が何も見えなくなるのであり、その時はぼおっとしているように周囲の人間には感じられるのである。真の詩人にはよくあることである。真の詩人は少し危ないのである。
 良寛禅師奇話第三十話に、一度托鉢で通った道を、山頂で休憩した後に再び同じ道を戻って来る話があるが、方向が分からなくなってしまったのである。それだけ何かに熱中していたということである。それは何であろう。恐らく詩歌であろう。そうでなければ、人生について思い悩んでいたかも知れない。それとも書の奥義についてであろうか。とにかく何か集中的に考え事をしていて、周囲などどうでもよくなっているのである。これは常人ではできないことである。良寛様の集中力は人並みではないのである。良寛様は一つのことに熱中すると、道を歩いていても周囲が何も見えなくなってしまっているのであり、それは白い空間に一本の細い道があり、それを方向も定まらずただ単に歩いている状態である。であるから脳から素晴らしい詩歌が湧き出るのであり、人を感動させる言葉を発見できるのである。
 また良寛様は詩人であると同時に書聖でもある。書も神業と思えるほどの芸術作品を残している。書も手先の器用さと同時に集中力の産物である。良寛様の集中力をこめた作品は人間が書いたとは思えぬほどの芸術品である。書に素人の私がみてもその素晴らしさが直感できるのである。
 良寛様は神の領域に足を自由に踏み入れることのできる方であり、これを人は天才と呼ぶのである。良寛様を天才という人はあまりいないが、天才肌の方であることは間違いがないのである。
               
                                                      2011.4.15作成