遍澄さんへの短歌

                                                           小山 宗太郎

  良寛禅師奇話56話に「師仏ニ入ル、初ハ如何ナル故ヲ不知、釈遍澄ニ問フベシ。」とある。これは、良寛様が「自分に関することなら、弟子の遍澄に聞きなさい。」と云っていることとほぼ同じである。それだけ、良寛様は遍澄さんを信頼していたということである。
それなのに、である。遍澄さんの扱いが良寛研究において低いのである。いくつか出されている良寛経歴譜においても遍澄さんのことが全く記載されていないものがいくつか見られる。貞心尼のことが記載されていない良寛経歴譜はまずないが、貞心尼よりも良寛様への影響力は遙かに大きかったのではなかろうか。良寛様の詩歌が多く発表されたのは遍澄さんが弟子となった乙子神社時代であり、遍澄さんが炊事洗濯、小間使い等行ってくれたおかげで詩歌や書に専念できたのであろう。しかるに何故扱いが低いのであろうか。いや、扱いが低いというよりも、遍澄さんの資料が少ないのかも知れない。現在、良寛様に関する書物をかき集めて読んでいるのであるが、良寛様の遍澄さんへの書簡が全くないのである。また、良寛様から詩歌を習ったであろうが、2人が歌を詠み合ったという資料もほとんどなく、遍澄さんの良寛様に関する記述もほとんど見あたらないのである。ただ良寛様を描いたとされる絵が残るのみである。これはどうしたことであろうか。遍澄さんは資料を処分してしまったのであろうか。それとも後世の人が誤って処分してしまったのであろうか。資料が乏しいことは、実に残念である。解良栄重が書いた「良寛禅師奇話」のような資料を遍澄さんが残していてくれたら、後世の我々にはどんなにか助かったことであろう。良寛様は自分のことを語ることを好まなかったといわれているが、その意志を汲んで遍澄さんは残さなかったのであろうか。今となってはどうすることもできないが、資料がもっと出てきてほしいと願う次第である。
 さて、遍澄さんの晩年はやや不遇であったようである。眼病のため願王閣至誠庵を出て、生まれ故郷の妙コ寺に戻り、そこでお亡くなりになった。以前妙コ寺を訪れたことがある。昭和35年に「遍澄法師頌コ碑」が建てられ、そこがお墓のあった場所である。お墓には小さな地蔵があり、元々それが墓碑である。頌コ碑の脇に置かれている。以前は首がとれていたという。現在も首が体に乗っかっている状態である。何十年もほとんど忘れられていた存在なのであろう。合掌。


   遍澄さんを忍び短歌五首奉納

遍澄のお墓の地蔵の首落ちて首の眺める空の青さよ
良寛の後に従ひ托鉢をする少年の遍澄さんは
良寛を父の如くに慕ひつつ付き従へる遍澄さんは
良寛を背負ひて山を下りたることもあるらむ遍澄さんは
良寛の死辺の枕は遍澄の膝なりにけり南無阿弥陀仏

2011.2.20記載