三浦屋の都羊羹
                                           小山宗太郎                        

 良寛様の信奉者に三浦屋の遠藤幸助がいる。幸助は、三条市二之町に住む菓子商の主人であり、俳諧や画を好み、三条の文化文政期を代表する文人であり、風流な暮らしをしていた。良寛様から長歌「月の兎」を戴いており、三条に寄った際には必ず三浦屋を訪れている。また良寛様以外にも鈴木牧之などとも交わっている。菓子商としては、都羊羹が有名であり、商売を手広く行い、隣町の加茂にも店舗を広げている。その都羊羹は良寛様の好物でもあり、良寛様の墓前にも供えられたりしている。また息子の元助も良寛様の信奉者であり、良寛様の詩碑を三条八幡宮に建てている。しかし店屋は代がかわるごとに次第に衰退して行き、本拠地の三条を引き上げ、加茂に引っ越し、菩提寺も三条の定明寺(じょうみょうじ)から加茂の双璧寺(そうへきじ)に移した。更に明治末になって、本家は新潟市に移ったそうである。その後変遷を経て、そのお墓は元の定明寺に移ることとなった。
 さてここからが本題である。現在は無いが、私が小学生の頃、遠藤和菓子屋が近所にあった。双璧寺とそれほど離れていない場所である。その和菓子屋が三浦屋と本当に関係があるのかどうかは分からない。しかし、「遠藤」で「和菓子屋」である。何の関係もないとは思えない。いろいろな和菓子が売られていたが、羊羹もあったように微かに記憶している。その羊羹は水羊羹のようなものではなく、堅い羊羹であったように思う。江戸時代に水羊羹があるとは思えない。水分を多く含むと腐れやすいのである。やはり日持ちをよくするために、水分を減らして堅めに作り上げるであろう。
 そうである。あれこそ三浦屋の都羊羹の流れをくむ羊羹である。だが、あのような羊羹は遠藤和菓子屋以外でも食べた記憶がある。加茂には人口に比べ和菓子屋がたくさんある。それは加茂は職人町であり、昔から十時と三時のおやつに和菓子がよく出された。それで和菓子が発達したのであり、昔から知られた銘菓はいくつかある。私はその羊羹を求めて、加茂の和菓子屋を巡り歩き、遂に探し出した。それを買ってきて、じっくりと一人部屋で味わった。間違いがない。子供の頃味わった遠藤和菓子屋の羊羹の味である。これこそ三浦屋の流れをくむ羊羹である。私はそう確信した。確固とした理由がある訳ではない。舌の直感による確信である。であるから、具体的に和菓子屋の名前は出せないが、良寛様を偲びながら、堅くて日持ちのよい、その白羊羹を戴いた。合掌。
                                                 2011.9.6作成