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高野略年譜 ・ 高野公彦秀歌その一 ・ 高野公彦秀歌その二 ・ 高野公彦秀歌その三 ・ 高野公彦秀歌その五 |
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歌集「地中銀河」・平成6年12月1日発行・雁書館・629首・49歳〜51歳 |
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藍壺の底ひのごとき冬の夜の深(しん)宇宙見あぐ煙草買ひに出て 歌集「地中銀河」
「藍壺の底のように見える冬の夜の深い宇宙を見上げる。煙草を買いに出て」、という意味である。「藍壺の底ひのごとき」という比喩が上質である。深宇宙は造語であろう。「煙草買ひに出て」に現実感が出ているように思う。
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月よりもはるけしごとし我の死も友の死もなき湾岸戦争 歌集「地中銀河」
「月よりも遙か遠くのできごとのようだ。私の死も友の死もない湾岸戦争は」、という意味である。テレビで湾岸戦争を見ていたが、映画のような感じを受けた。機関銃の音が聞こえ、ミサイルがパッと光ったりしたが、画面の中のできごとであり、実感が湧かなったことを覚えている。自分とは関係のない遠い世界のできごとに感じたのである。
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わが皮膚を〈国境〉として中国語するどくひびく北京駅に立つ 歌集「地中銀河」
「私の皮膚を国境として中国語がするどく私の周囲を飛び交っている北京駅に立っている」、という意味である。「皮膚が国境」とは自分の体が日本であり、理解できない中国語に対して抵抗感があるということであろう。
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凡作を我は蔑(なみ)せず凡作は歌のみなもと、良き歌の種 歌集「地中銀河」
「平凡な作品を私は軽蔑しない。平凡な作品は歌の源であり、良い歌の種である」、という意味である。確かに平凡な作品を基盤として、それを修正することによって良い歌になることがある。実感としてこの歌の主旨は理解できる。
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田舎者都会で生きてこし五十 歌人たり 甕の目高の父たり 歌集「地中銀河」
「田舎者である私は都会で聞いてきて五十年経つ。(今では)歌人であり、カメの中のメダカの父である」、という意味である。作者はメダカを飼っていたのか。私もメダカを飼っていたことがある。なかなかに可愛いものである。孤独な人にはメダカがとても似合うように思う。
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わが幼時、百葉箱(ふしぎなはこ)がひつそりと夕日を浴びて立つてゐました 歌集「地中銀河」
「私が幼い時、百葉箱がひっそりと(校庭の脇に)夕日を浴びて立っていました」、百葉箱は確か小学校の4・5年生の理科の授業で使用する教具であり、中には温度計や湿度計などが入っている。あの中には何が入っているのか不思議に感じていた幼児や低学年の児童はたくさんいたのである。現在でもそうであろう。「ふしぎなはこ」というルビには少しびっくりした。
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地中銀河と言はば言ふべし富士山の胎内ふかく行く寒き水 歌集「地中銀河」
「地面の中の銀河と言うならば言うべきである。富士山の胎内を深く流れている寒い水」、という意味である。歌集の題名となった歌である。最初何のことか分からなかったが、地下深く流れる水が天の河、つまり銀河のように見えるということである。詩人としてのおもしろい発想である。
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とほき日に別々の〈死〉が待ちをらむ街列びゆく黄帽の園児ら 歌集「地中銀河」
「遠い未来において、別々の死が待っているのだろう。街を列びながら歩いてゆく黄色の帽子の園児らに」、という意味である。園児を見てそれぞれの死を連想する発想が詩人である。また誰も考えないであろう発想である。真の詩人とはそういうものなのだろう。
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歌が良く性格よくば顔などはどうでもよしと言へば嘘になる 歌集「地中銀河」
「歌がうまく、性格が良いならば、顔などはどうでもよいといえば嘘になる」、という分かりやすい意味である。正直に告白している姿勢がよいと思われる。だが女性には嫌われる発想の歌かも知れない。
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木登りが少年たちの筋肉と脳を育てたといふ我の説 歌集「地中銀河」
「木登りが少年たちの筋肉(体力)と脳(思考力)を育成したと私は考えている」、という意味である。木登りはとても危険であり、一歩間違えば大怪我をするのである。どのように上まで安全に登るのかは、よく考えないといけないのである。これは一面の真理である。
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歌集「般若心経歌篇」・平成6年11月30日発行・本阿弥書店・237首・50歳〜52歳 |
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時ゆけりビデオテープをひゆんひゆんと巻戻しするその間も逝けり 歌集「般若心経歌篇」
「時間は過ぎ去る。ビデオテープをヒュンヒュンと巻き戻しするその間も(時間は)過ぎ去る」、という意味である。時間が過ぎるを「時が逝く」と表現する感覚は詩人である。過ぎ去る時間は戻ることがなく、消えて行くのであるから「逝く」という表現も納得できるのである。
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見つつわれ入りてゆくなりあぢさゐの花の内なる青き湖心(こしん)へ 歌集「般若心経歌篇」
「見つめつつ私は入ってゆく。紫陽花の花の中にある青い湖の中心に」、という意味であろうか。作者には紫陽花の歌が多く、好きな花の一つなのであろう。紫陽花という花は少し暗い雰囲気があり、その中心には何があるのだろうとふと思わせる。作者は湖心を見たのである。さて「湖心」を「湖の中心」と解釈したが、「湖の心」とも考えられるかも知れない。
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滅びたる星も混じりて星ぞらは一大かすみさうと咲(ひら)きぬ 歌集「般若心経歌篇」
「消滅したる星も混じりて、星空はとても大きなかすみ草が花開き、広がっているようだ」、という意味であろう。かすみ草は、白く小さな花がたくさん咲く花である。星のようにも見える。比喩としては的確である。
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実像の宮柊二より大いなる虚像つくりて拝(をろが)むなゆめ 歌集「般若心経歌篇」
「実像の宮柊二より大きい虚像をえがいて拝むべきではない」、という意味である。宮柊二は短歌結社「コスモス」を結成した人物であり、作者の師である。身近にいたので、宮柊二のことはよく知ってるのである。コスモス会員の中には歌は知っていても実像を知らない方が多くなってきている。お亡くなりになってからだいぶ経つので、実像がぼやけて来るのも仕方ないのかも知れない。
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作成中by小山 |