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高野略年譜 ・ 高野公彦秀歌その一 ・ 高野公彦秀歌その二 ・ 高野公彦秀歌その三 ・ 高野公彦秀歌その四 |
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歌集「天泣」・平成8年6月22日発行・短歌研究社・329首・51歳〜52歳 |
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街川に自転車いくつ水漬(みづ)きをり死ぬには永き歳月が要る 歌集「天泣」
「街を流れる川の中に自転車がいくつか沈んでいる。死ぬためには永い歳月が必要である」、という意味である。街では自転車の不法投棄がよく行われているのだろう。自転車は故障すれば簡単に捨てられるが、人間はそういう訳にはいかないということであろう。
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水に棲み水より出でて地を這へり外骨(そとほねあるもの)不器用に 歌集「天泣」
「水の中に棲み、水より出て地面を這っている。外側に骨のある生き物は不器用に」、という意味である。この生き物は蟹などの甲殻類であろう。外骨(そとほねあるもの)という表現は詩人の発想である。この歌は「甲殻類が地面を這っている」というだけの内容であるが、歌に仕上げてしまう処が凄いのである。
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我を生みし母の骨片冷えをらむとほき一墓下(いちぼか)一壺中(いちこちゅう)にて 歌集「天泣」
「私を産んだ母の骨片は冷えているのだろう。ここから遠い墓の下、骨壺の中にて」、という意味である。墓の中の骨となった母を思い出しているのだろう。普通、亡くなった母のことを思い出す場合、墓の中の骨のことは思い出さないが、詩人は一般の感覚とは違うのである。これで秀歌となったのである。
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森が死に 生きものが死に しんかんと独りでまはる球体の末 歌集「天泣」
「森が死に絶え、生きものが死に絶え、深閑と孤独に回る地球の末の姿よ」、という意味であろう。こんな地球になってほしくないが、その可能性があるのが現代である。
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くすの木の照葉に冬日片照りてかの世で会ふや白秋、柊二 歌集「天泣」
「楠木の照葉に冬日が片側照りつけて、あの世で会っているであろうか白秋と柊二は」、という意味であろう。二人は良き子弟関係にあった。作者と柊二のように。
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らーめんに矩形(くけい)の海苔が一つ載りて関東平野冬に入りたり 歌集「天泣」
「ラーメンに長方形の海苔が一つ載って、関東平野は冬に入った」、という意味である。上句と下句のつながりがあいまいであるが、そういうことなのである。そういうことがおもしろいということもあるということである。
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誕生日、同じ。
居ながらに一つ年とる十二月十日、死者たる寺山を超ゆ 歌集「天泣」
「居ながらに一つ年をとる十二月十日、死んでしまった寺山の年を越えてしまった」、という意味である。寺山修司は前衛短歌の代表的歌人であり、高野短歌にもその影響が感じられる。誕生日が同じとは、何らかの因縁があるのかも知れない。なお作者は寺山より六つ年下である。
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どちやう屋の二階より見つ裏庭の盥(たらい)にうねりひしめく黒を 歌集「天泣」
ドジョウ屋の二階から見ている。裏庭のたらいの中で、うねりひしめく黒いドジョウを」、という意味である。ぐにょぐにょとひしめくドジョウの様子がよく見え、印象的な歌である。私の好きな歌の一つである。
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終末(タカストロフ)に近づく「ボレロ」金泥(こんでい)をぶちまけたるやうに打楽器乱打す 歌集「天泣」
「曲の最後に近づくボレロ。金泥をパアッとぶちまけたように打楽器を乱打している」、という意味である。この歌は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが作曲したバレエ音楽、ボレロという曲を知らなければ鑑賞できない歌である。「金泥をぶちまけたような」という比喩が巧みである。
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みづからの意志ならなくに札の顔となりし漱石日本に満つ 歌集「天泣」
「自らの意志ではないのに、お札(千円札)の顔となった夏目漱石は、日本に満ちている」、という意味である。漱石が生きていたら何というであろうか。喜んだであろうか。それもと怒ったであろうか。何ともいえないであろう。
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スピカは「麦の穂」の意。乙女座の首星
スピカまで二00光年 コンビニへ水買ひにゆく暗き夜のふけ 歌集「天泣」
「スピカ星まで二百光年かかる。コンビニに水を買ひに行く、暗い夜の更けに」、という意味である。コンビニに行く途中にスピカを眺めたのであろう。宇宙の広さ、大きさと比べると人間は何と小さいことであろうと感じたのであろう。
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天泣(てんきふ)のひかる昼すぎ公園にベビーカーひとつありて人ゐず 歌集「天泣」
「天泣(空が晴れているのに,ぱらぱら降る雨,あるいはその現象のこと)の光る昼すぎに公園にベビーカーが一台あって人がいない」、という意味である。天泣は歌集の題名でもある。ベビーカーの持ち主及び赤ん坊は何処に行ったのであろう。何か不思議な歌である。
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こもりぼけ打ち払ふべく出でて来て田端大龍寺子規の墓にをり 歌集「天泣」
「家に籠もって惚けてしまうことを打ち払うために出て来て、田端の大龍寺の子規の墓にお参りに来た」、という意味であろう。正岡子規が作者は好きなようである。生き方を含め、私も好きである。
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はなやかにキャンパスを来るスカートのその短さは少女(をとめ)の言葉 歌集「天泣」
「華やかな格好をしてキャンパスにやって来る少女たちのスカートのその短さは、少女たちの言葉のようだ」、ということである。作者が青山女子短期大学の教授だった頃の作品である。少女たちは、スカートも短いが、言葉も短く省略するということであろう。しかし、やや解釈の難しい歌である。
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胸うちに濃霧を秘めてゐるやうなひそやけき子に式子(しきし)を教ふ 歌集「天泣」
「胸の中に濃い霧を秘めているような密やかな少女に式子を教える」、という意味である。式子とは、式子内親王のことであり、新三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女である。その少女は式子に似ていたのかも知れない。「胸うちに濃霧を秘めてゐるやうな」という比喩が素晴らしいと思う。
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雷(らい)鳴れば鳴る方を見て教室のわが少女らは敏(さと)き水鳥 歌集「天泣」
「雷鳴がとどろけばそちらの方を見て、教室の私が教えている少女たちは敏感な水鳥のようだ」、という意味である。年頃の女性はちょっとしたことにも敏感に反応し、ざわざわとして勉強に集中できないということである。
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うすぎぬにつつまれ我に向く乳房幾十ありて教室暑し 歌集「天泣」
「薄い着物に包まれ私に向いている乳房が幾十もありて教室は暑い」、という意味である。女子大学で講義している時の歌である。目のやりどころに困る暑い夏の一風景である。
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ひるやすみをとめら集ふ食堂は千のふうりんさやぐがごとし 歌集「天泣」
昼休みに乙女らが集まる食堂は千個の風鈴が戦いでいるようだ」、という意味である。女性だけの集団はかしましいのであろう。千の風鈴という比喩が卓越である。
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爪先(つまさき)ですずしく立てり母となるまへの乙女のほそきししむら 歌集「天泣」
「爪先で涼しそうに立っている。母となる前の乙女の細い肉体は」、という意味である。女性は母となるとしっかりと安定した体つきになる。肉体が改造されたように変化するが、かなしむべきことでもないように思う。
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テンプラの虎魚(をこぜ)美味にて悪友のごとくなつかしき面がまへ 歌集「天泣」
「天ぷらの虎魚は美味にて、悪友のように懐かしき面構えである」、という意味である。虎魚は愛嬌のある顔立ちであり、悪友に見立てている処に上質のユーモアが感じられる。
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晶子読む授業終りて立ちあがるをとめをとめの背の高き世ぞ 歌集「天泣」
「与謝野晶子の歌を読む授業が終わって立ち上がる、乙女乙女の何と背の高いことだ」、という意味である。昔と違って栄養状態がいいので日本人の体格もよくなり、手足が長く、スタイルのよい女性も増えてきた。その驚きである。
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滝、三日月、吊り橋、女体、うばたまの闇にしづかに身をそらすもの 歌集「天泣」
「滝や三日月、吊り橋、女の体などは、闇の中で静かに身をそらしているものである」、という意味である。これらの中で、特に美しいものは、女性の曲線であり、闇の中ではさらに美しく見えるということであろう。
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作成中by小山 |